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ジョハリの窓のこと考えていたら眠れなくなった話

自分がクリエイターに何かを頼むとしたら、

いつも「現実を超えて欲しい」と思ってしまう。

自分がクリエイター側の時はその要求に死にそうになるくせに。

例えば、自分が写真を撮られるとしたら、
老けたババアそのままに撮らずに、女優のように撮って欲しいと思う

立場を逆転すれば当然のように感じるのだから、人は愚かだなぁ・・・

しかし、ババアが女優になるというのは
嘘になってしまうだろうか。

「現実を越えること」と「嘘」にはどんな違いがあるだろう。

そんなことを考えて今日も眠れない。

ジョハリの窓という概念がある。

①開放の窓 自分も他人も知っている自分
②盲点の窓 自分は気が付いていないが他人からは見えている自分
③秘密の窓 自分は知っているが他人は知らない自分
④未知の窓 自分も他人も知らない自分

ここに「ハダカの王様」を当てはめてみたとき、

「とうめいな服」を着ていると思ったら
「ハダカ」で子どもに指摘されて現実を知る

という話なので

王様にとって
①自分も他人も知っている自分
かと思ったら
②自分は気が付いていないが他人からは見えている自分
だった

という話かなと最初は考えた。
「とうめいな服」は「嘘」だった。

しかし、現実にはどうだろう。
「とうめいな服」を語る人はとても多く、

「ハダカじゃねえか」と内心小馬鹿にしていたら
実際に「とうめいな服」があった!ということは多々ある。

それは上司と部下だったり、親と子、老人と若者の間で起こったりする。

知っているものと知らないものとのあいだに、なのか
何かが見えているものと見えないもののあいだに

もちろん、日常で誰とでも起こりうるのが
「とうめいな服はあるか否か問題」である。

だからハダカの王様の話でも
家臣たちはハダカであることを誰も指摘できなかったのではないか。

実際にこの問題の当事者になったときにはそう簡単な話ではないということである。

相手が語る「とうめいな服」は
必ずしも「ハダカ」ではないという可能性が捨てきれないから。

最初のクリエイターの話に戻る。

何かを頼むときに「現実を超えて欲しい」と願うのは
②自分は気が付いていないが他人からは見えている自分
を見せて欲しいという話では実はない。

私が自分の持っている商品の広告をデザイナーに頼むとする。

打ち合せで自分の商品について説明するするのは
③自分は知っているが他人は知らない自分
を打ち明けていくこと。

そして、デザイナーから提案という形で
②自分は気が付いていないが他人からは見えている自分
を教えてもらう。

そうすることで、①自分も他人も知っている自分 の領域が広がり、
双方の意見が交わることで④自分も他人も知らない自分 の領域も広がる。

そう。
そうなのだ。

デザイナーに頼んでいるのは②ではなく④なのである。

④自分も他人も知らない自分を見せてほしい。

それはハダカの王様が半信半疑で透明な服を商人から買い求めたように
「とうめいな服って本当にあるんじゃない?どうかな?」
と家臣たちに問いかけたその無邪気さで

クライアントは④というとうめいな服を求めるのである。
それが「現実を超えて欲しい」なのである。

世のクリエイターたちは、なんと辛い立場だろうか。

④の広げ方は、
双方の意見や見方が交わるという「理解」の他に

「技術」と「環境」があるのではないか。

デザイナーの例えで言えば、「技術」というのは使う機材であったり、
デザイン力など努力や物によって計画的にカバーしうることである。

Win内蔵のペイントソフトよりも、
PhotoshopやIllustratorを使ってデザインする方が
何倍も現実を超えていけるのは目に見えているし

仮にペイントソフトでデザインができるとしたら
それはデザイナーのデザイン力という超技術である。

「環境」は偶発的な外的要因。
競合他社の動向や市場、第三者の意見やお客様からの反響などによって
未知の領域が開かれていくことはあるだろう。

たまたま風が吹いたからいい写真が撮れた、みたいなものも偶発的な外的要因によって現実を超えたという事例だと思う。

神風が吹くことを望むクリエイターも少なくはないと私は思う。
(すくなくとも、私はいつもそこを願っている。)

そして、ハダカの王様に出てくる子どもを待っている。
「何も着てないじゃん」と無邪気に現実を突きつけてくれる誰かを。お願い、私をラクにさせて・・・と。

 
上司、とりわけ経営者クラスのクライアントは可能性を語る。
そんな無茶な!という「とうめいな服」を求める

まるで ③自分は知っているが他人は知らない自分 のようなテンションで
④自分も他人も知らない自分 というとうめいな服を出せ!産め!と脅す。
これほどの脅威はない。

そんな「とうめいな服」なんて、
「ハダカ」でみんなを歩かせるようなもんじゃないか。

てゆうか、「とうめいな服」を売るなんて
嘘つきだ。詐欺師の商人じゃないか!!

そんな風に心が揺れ動く。

上司の、クライアントのいう
「とうめいな服」は

「現実を越えた何か」なのか
それとも「嘘」なのか。

それが自分にかかっているという重圧。

本当に無いと分かりきっているものであれば、
それを現実かのようにうたうのは詐欺であるし、嘘だけれど

「可能性」なのであればわからない。

そうやって可能性を追いかけ(追いかけさせられ)
「とうめいな服」に何度か出会ってきた過去を振り返ると
立ち止まれないのもまたクリエイターではないだろうか。

無茶苦茶な指示を超え、産み出されたものを前に、自分の底力に驚かされたり
売れないだろーと思っていた商品が売れたり。

そんなことが起こるのもまた現実だったりする。
(「やっぱりハダカ」でがっかりするのも現実だけど。)

それでも ④自分も他人も知らない自分 という
未知の領域が押し広げられてハッとする瞬間を求めてしまうのだ。

可能性を追い「とうめいな服」を作ろうと
今日もどこかでクリエイターは頭を悩ませる。

「嘘」なのか、「現実」を超えたことなのか

自分のようなババアを女優にするのは、
それがクライアントの望みならば「嘘」ではないのかもしれない。

④自分も他人も知らない自分 の領域を押し広げ
「私じゃないみたい~!」という無邪気な声をあげさられてこそ、クリエイターの「現実を超える」いい仕事なのかもと思えてきたからだ。
(無茶振りですまん、って感じだけど)

自分が逆の立場だと死にそうになるんだけど、
その瞬間に出会いたいともやはり思ってしまう。

そう思うと、
ハダカの王様だって実はとうめいな服ってものの
可能性を求めていたんじゃないだろうか

家臣たちがなんとか「とうめいな服」を用意すれば
「嘘」ではなく「現実を超える」ことになったかもしれないのに。

そこには創造力が足りなかったんじゃないの??
もっとクリエイター魂みせればよかったんじゃないの!?


なんて
立場が違えばなんとでも言えるんだけど。
人って愚かだな・・・・

そんなことを考えて朝になる。
今日も寝不足だ。

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