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2019年10月の日記

2019年10月7日(月)

映画館へ行くために車を走らせたとき、いま自分はひとりだと思った。迷いたいから迷う、悩みたいから悩む、でも尽くせるものは思考しかない。川沿いで信号待ちをしていたら、橋から右折してくる車のヘッドライトの光の先端が、わたしの胸の上を旋回していく。そのとき見えるものはなんだ。暗がりにだけ出現する出口、祈りの類の導き、メッセージ。でもそれはまだ読めない。読めないというメッセージ。だから光のかたちを取るのだ。

いいことでも悪いことでも、悩みはすべて「いつまで続いてゆくのか」ってことなんだ。いつまでこの足場はここにあるのか、いつになったら足場はあらわれるのか、いつまで救いが続くのか、いつになったら救われるのか。わからないから生きていられるなら、どうして続きの一つひとつに感応する必要があるだろう。幕は自動で上がる。それをけらけらと観る誰かがいるのか。それは自分か?

ひとりでなければ見えないものが多すぎる。車を降りて映画館へ向かいながら、なぜみんな誰かと歩くのか考えてた。繁華街を連れそって歩くのは友だちか家族か同僚か、そうでなければ恋人か。そばにいるために愛する瞬間があるだろう。歩幅をあわせて隣を歩く誰かが必要で、人が人を愛する瞬間。それは愛しているってことではないはずだった。

なにかを信じれば楽になる。わからないことへの頼りなさを、信仰にゆだねることができる。信仰にたよらない人間が強いわけじゃない。ライトアップされた大広場で、はしゃいだ子どもが舞うようにして父親に駆け寄っていった。父親はそれを受けとめ、母親が子どものあとをたどり、家族は線になる。


2019年10月16日(水)

友だちが今朝、横断歩道を渡っているとき、うかつな車に轢かれそうになったと言っていた。みんな、いつも轢かれそうになりながら暮らしている。今日ではないだろうとにらんで、明後日までの食材を買って帰る。あの運転手がいつブレーキを踏み忘れてもおかしくはないし、いつか誰の意思にもよらずに故障するかもしれない。

夜、『キング・オブ・コメディ』を観返す。身のうちに光を宿さずに、自分のための照明に焦がれてやまない他者が哀しく見えるなら、それってなんだか、わたしたちはずいぶん高いところからそいつらを見ているようだなと思う。

バスに乗りたい。バスって全部が見えるだろう。

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2019年10月31日(木)

手をつないで横断歩道を渡る母親と男の子を眺めていた。ちいさな身体で彼は母親を見上げて笑ったけど、彼女はたまたまそれに気づかなくて、目線は交わらなかった。世界は易しくなくてはならないと気づく瞬間、吾輩の顔が浮かぶ。あの子は一から十までわたしたちの身勝手さのなかで暮らしていて、ねこ調べ・人間向け幸福度数が叩き出される日はこない。それでもあの子が話しかけてくれるとき、わたしはひとつも逃さずに返事をしたい。あの子が安心を求めるとき、わたしは時計を手放したい。天気を共有し、何度でもあいさつをしたいと思う。

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