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科学をテーマに事業を創っているので、改めて考える機会がなかったと気づいたのは、3年前くらいでしょうか。自分が「大事だ」とか「重要だ」と思っているものやことって、あまりに大事すぎて、その言葉が持つ意味を考えることがないなぁとある日気づいたのでした。

特に、「当たり前」だと思っていると、よくこの事象に陥りやすいなぁと。そして、その人の考え方が反映されるので、100点満点で万人が納得できる定義もない。

極端な例だけど、例えば、「なぜ人を殺してはいけないのか?」。当たり前だと思うけど、ふと聞かれた時に、スムーズに答えられる人はいないんじゃないかな。「自分の大切な人が殺されたら悲しいから、悲しむ人がいるから殺してはいけない」といった感情的なものや「法律で犯罪(悪)と決まっているから」という社会機構的なもの、「人の生命を支配する(寿命を操作する)権利は誰にもないから」という道義的?なものなどいろいろ考えられる。

ちなみに、思い浮かんだもの以外でも理由はあると思うけど、私はこの問題に真剣に取り組んだことがなく、さまざまな方面から考えられた「答え」を持ち合わせていません。こんな話を出して、なんなんですけど。

この例だと、悲しむ人がいなければ殺してもよい、法律が改正されて殺人が罪にならなければ殺してもよい、権利を与えられたら殺してもよいと逆に考えたときに、「いや、それは違うでしょ」と感じるということは、きっとあまり良い答えじゃないんだろうな。

きっと大事だと思うことは、長い時間かけていろいろと思考を巡らし、言葉にしておく必要があるなぁと考えたのでした。もちろん、意識せずに思考の中にあるものを言葉にすることができる人は大丈夫なんだろうけど、残念ながら私はそういう能力を持ち合わせていない。なので、意識して考え続けるしかないなぁと思っています。もちろん、なかなか良い言葉にはならないんですけど。

さて、私が事業のテーマにしている科学。私の中では科学とは何か?と聞かれたら、「わからないことがわかること」を科学の定義にしています。

「人が知らないことを発見すること」「理論を組み立てること」などの意見を聞いたことがあるし、Webで調べると、「定領域の対象を客観的な方法で系統的に研究する活動。また、その成果の内容。特に自然科学を指すことが多い」と出てくる。これも「人が発見したことは科学にならないのか?」「理論が組みたたなければ科学にならないのか?」「系統的な研究でなければ科学にならないのか?」と言われると、そうではない気がする。そして、よく言われるのが、実証性、再現性、客観性などを持つものという定義。

私が研究している鯨類や動物解剖学の分野は、ほとんどの場合、もっともらしい答えを考え出しているに過ぎない。あくまでデータから導くことができる考察を答えにしているだけであり、あくまで「考えたこと」である。野生動物を相手にすると、そうそう何かの答えに行きつけるほどデータを集められなかったり、振れ幅が大きく、系統的にまとめられなかったり、そもそもデータが上手く取れなかったりとうまくいかないことだらけ。つまり、再現性も実証性もない。客観性も怪しい(笑)もちろん、だからと言って、いい加減でよいわけでもなく、ましてや捏造するなど論外。科学の価値を貶める行為は自分で自分の首を絞めているにすぎない。成果を求められない野良研究者だからそういう風に言えるのかもしれないけど、そこはゆずれないな。

と少し脱線したけど、そうやって研究をしていく、その連続の中で、少しだけわかったことができると、それ以外のことが「わかっていない」ということが分かる。そしてそのわかっていないことをわかる努力をする、つまり研究するという連続だと思う。

いろいろ考えると、科学とは「わからないことがわかること」が一番落ち着くのじゃないかなと思っています。

いろんな方と話していくなかで、意見、反論を聞くなかで、この私の”定義”も変わるかもしれないですけど、今の私の解の話でした。

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