親は一番身近な「他人」である
2月25日は「親に感謝の気持ちを伝える日」だそうです。
(ブログ書いてるうちに日付がぁ変わってゆくぅ~…。orz 笑)
「2(親子の双方に)25(ニコニコ )」。(^^)
う~ん…。
ちょっと苦しい……かも…。笑
でも、この日を感謝を伝えるきっかけの日にしたい、という(必死な)想いは伝わりますね☆(語呂のクセがすごくてね…もう…。笑)
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「親は大事にしなければならない」「親には感謝しなければならない」
江戸時代からの儒教道徳教育が深く根付いている日本社会では、確かに”正しい”価値観かもしれません。
でも、よくよく考えてみれば、実はこれも一つの観念(思い込み/マイルール)だということに気付きます。
本当は、大事にできなくてもいいし、感謝できなくてもいい。
でも、自分を生んでくれた親に対してそんなことを思うのは、何だか罰当たりのような気がしてしまうんですね。
感謝の言葉の代表ともいえる「ありがとう」。
これは元々「有り難し(ありがたし)」が語源で、
「有ることが難しい」=「存在し難い(もの)」
を指す言葉でした。
それが、「めったにないほど素晴らしい存在・出来事」に対する感謝の意味となり、後に一般的なお礼の言葉となりました。
つまり、
「感謝を伝える」ということは、相手を素晴らしい存在として認める行為
だとも言えるのでしょう。
もし今、親に素直に感謝出来ない方がいても、そんな自分を責める必要はありません。
親に感謝を伝えたい人、伝えたくない人、伝えたくても伝えられない人。
いろんな方がいると思いますし、そのときの自分の心に従えばよいのだと思います。
実は「有り難し」は仏教の『盲亀浮木(もうきふぼく)』というたとえ話が元になっています。
大海に棲み、百年に一度だけ水面に浮かび上がる目の見えない亀が、海面に漂っている浮木のたった一つの小さな穴に入ろうとする。しかし、亀の目は見えず、浮木もゆらゆらとこの広い海の上を漂っており、当然、そう容易に入ることは叶いません。それは奇跡のような可能性です。しかし、私たちが人としてこの世に生まれることは、この亀のたとえ話よりもなおいっそう難しく、「有難いこと」なのだそうです。
そう思うと、「親に感謝の気持ちを伝える」ということは、
当たり前(「有難い」の反対語)の身内である親を、改めて自分とは異なる他者として認めながら、命を介する縁であるそのつながりの貴重さを、しみじみと知るということなのかもしれません。
「感謝」は「許し」であり、「許す」ことで「手放す」ことができます。
親を手放し、自分と向き合う契機として、この機会に「感謝」を伝えてみても良いのかもしれませんね。
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