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Drive my car|2021年10月3日の日記

映画『ドライブ・マイ・カー』を観た。

とてもよかった。きょうはこれについて書かざるをえないが、前提として、「書けない」という思いがまずある。

いや、書こうと思えばそれなりのことは書ける。劇中劇のせりふと現実の重なりとか、“Drive my car” というタイトルについてとか、家福と渡利の関係とか。でもそういうものを表層的に書き出してみたところで、この映画とはかけ離れたものになってしまう。

誤解を恐れずにいえば、ある意味で「わかりやすい」映画だったと感じる(それはそのまま「脚本が比類ない」といいかえることもできるだろう)。くりかえされるチェーホフのせりふはもちろん登場人物の心情に寄り添っていて効果的だし、むだをそぎ落とした家福と渡利の会話はそれじたい劇のようだ。傷があり、旅と時間を経てそれがかたちを変える。車が過去と現在の媒介となる。

場面を切り取って、ことばによってその「意味」を説明しようとするならば――そしてそれが可能ならば――映画で描かれる必要がない。

わたしの想像力はほんとうに乏しいものなので、本を読むのとは比べものにならないくらいの情報量が映画にはあり、すばらしい作品を観るといつも圧倒されてしまう。なにより、映画には音がある。無感情に読みあげられる台本、大音量のモーツァルト、走行中の車のエンジン音、日本語とロシア語、英語、韓国語の響き、それに手話の「音」。それらが視界いっぱいの映像とともになだれ込んでくる。処理しきれない。また、「演じる」というのも作中で重要なファクターだったが、じっさい一流の役者が伝えるものの情報量はちょっとことばにできない。

生きるとは、なんと過酷なことだろう。とくにそれを受けとることのできる者にとっては。悲しみが、絶望が、傷が、取り返しのつかないことがあるとわたしたちは知っている。なにかに希望を見いださなければならない。


映画館の空気もよかった。定員100人のちいさなスクリーンに8割くらいの人がいて、みんなが観たくて観にきているのだと思った。一面の雪に吸い込まれたように無音になる場面があり、その数十秒間まわりの全員が息をつめているのがわかった。作品に付加される「いま・ここ」の緊張感、それはほかに代えがたい鑑賞体験だった。エンドロールが終わって客席に電気がついて、ぞろぞろと出口にむかいながらも話し声がほとんどせず、それぞれの胸に映画が染みこんでいるのを感じた。



わたしは日常的に映画を観るわけではないので、映画館に行ったのもひさしぶりだった。直近では『シン・エヴァンゲリオン』以来か。ありスパでおすすめしてくれた原宿さんに感謝。ラジオを聞くまでタイトルを聞いたこともなかった。

これ以外にほとんど前情報を入れず、比較的フラットに観られたのもよかった。いまあらためて聞いてみたけど(冒頭~14:35頃)、原宿さんの言語化はすばらしいな。そう、「話の筋」じゃないところに本質がある場合、それはそれそのものとして受けとるべきなんだ。



なぜか寝たのが7時だったので、14時前にようやく起きた。掃除と洗濯。天気のいい日曜日。

頭が覚醒しなくて、映画を観にいくかどうか決めきれないまま数時間すごした。チケット代と交通費……と考えてしまうさもしい自分をゆるそう。上映時間のぎりぎりに到着する電車に乗る直前にようやくチケットを買って、家を出た。

行きの道中は池澤夏樹『氷山の南』を読む。帰りは読めなかった。思わず買ってしまったパンフレットを拾い読みしながら、この映画を心のどこにしまっておけるだろうかと考えた。


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