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忘れないことを続けていく。
今日は、3.11のお話を書きたいと思います。もし、嫌な思いを感じる人がいれば、そっと飛ばしてください。
2011年3月11日。あの日私は、仙台の自宅で、大学の入学に向けて買ったパソコンを開いていた。あと少しすれば自動車学校に行かないといけないから、少しだけにしよう。そう思って電源を入れたとき、大きな揺れに襲われた。
急いで机の下に隠れた。必死にしがみつきながら、まるでジェットコースターに乗っているようだと思った。
揺れが収まると、家族みんなで集まって無事を確認した。家も幸い無事だ。結構大きな揺れだったけど、自動車学校のバスが来るかもしれないなんて考えていた。でも、電気がつかない。水が流れない。ガスがつかない。
携帯のワンセグをつけると、仙台空港に津波が流れてくる映像が見えた。え?と思っている間に電源が切れてしまった。
結局外には出ず、家で腐りそうなものから、ストーブの上で焼いてご飯を食べた。夜になると、2階は危ないからと家族でリビングに布団を敷いた。
懐中電灯を灯して、時々来る揺れにびくびくしながらなんとか寝た。ラジオからは信じられない被害の状況が延々と流れていた。
朝起きて、新聞に目をみはる。なんだこれ。でも、自分たちには何もできなくて、とにかく毎日をなんとか暮らした。
そのうち、水道が流れて、電気がついて、ガスがともった。すごいうれしかった。だんだんと元の生活を取り戻していった。
そうすると、ただ家にいるだけの生活になっていった。もっと大変な人がたくさんいるのに、何もしていない。それがなんだか不甲斐なかった。
大学に入ると、震災ボランティアに参加した。初めてみる津波の爪痕。仮設住宅。そこで暮らす人から聞く思い。まだまだ私は震災を知らなかった。
そのあともゼミやサークル活動で何度か被災地を訪れて、そのたびに話を聞いた。何年たっても変わらない風景もあれば、少しずつ変化が見える風景もあった。お話を聞く人は、皆大変な思いをしただろうに、前を向いて明るく進んでいた。それはすごく貴重な経験として私の中に残った。
そして、今。震災を知らない世代が増えているというニュースをよく見る。そうか、私たちは経験した者として伝えていかなければならないんだ。聞いた話はもちろん、私自身の経験だって伝えていかなきゃいけないんだ。
そう思って、noteに書いた。やっぱり記憶は少しずつ薄くなっているんだと感じた。だからこそ、今残せてよかった。
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急にこのことを書いたのは、今年の3月頃にふと考えていたことを思い出したから。
3月11日が近くなると、ニュースとかで取り上げられることも多くなってくる。こんな時ばかり、こぞって取り上げてどうなのかという声も聞く。
でも、そんなときだけでも、と私は思う。
きっと宮城はこれでもテレビや新聞で取り上げられる回数は多いだろう。でも、別の場所はもっと少ないかもしれない。そうすると、記憶からは薄れていく。時間がたつにつれ記憶が薄れていくのは、仕方のないことだと思う。でも、やっぱりあのとき起こったことは風化させてはいけない。
そのためには、伝え続けていくこと、発信していくことが大事だと思う。テレビやラジオ、雑誌でもこのnoteだって取りあげられれば、思い出す人がいる。一分一秒でも震災のことに思いを馳せるがいる。だから、この時期だけでも震災のことを思い出すことが、意味のないことだとは私は思わない。
私もたまに会話の中で、ふと震災の話をすることがある。こんな軽い気持ちで言葉にしていいのだろうかと思うときもある。でも、こうやって話すことで、少なくとも私と相手の心には残る。
そうやって少しずつでも、記憶をつなげていきたいと思う。それが私にできる一つだと思うから。
だから私は今日も、忘れないことを続けていこうと思う。