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志村けんが死んでしまって、アンネフランクが私に教えてくれたこと



もうここ数週間ですっかり当たり前になったリモートワーク。カウンターキッチンで低糖質パンを咥えながらメールチェックをしていたら、ワイドショーおばさんである母から速報LINEが届いた。


志村けん、死んじゃった。


慌ててテレビをつけたら、ハリセンボンの春菜が大粒の涙を流していた。その涙につられて、テレビ前、何故か正座で、私も泣いた。そして、これ以上は苦しくて見れないと判断し、テレビを消した。


ドリフ時代をよく知らない平成生まれの私からすると、志村けんは『バカ殿はお姉ちゃんとかとのちょっとエッチな絡みもあって下品だからあんまり見ちゃいけないものなんだ』といった感じの入り口だったけれど、小学校低学年の頃の思い出の写真では誰かしらがケラケラした顔でアイーンしているし、志村動物園でのパン君と園長の深い絆は、お茶の間を確実に笑顔にさせた。


そんな志村けんが、コロナ感染で死んじゃった。


本当はとても遠いテレビの中の人のはずなんだけど、どこか全国民に近い存在である志村けんというおじさんがこの世を去ったことで、ようやく私にも、『もしかしたら私も明日死ぬかもしれない』という自覚が芽生えた。突然訪れた絶望に意識がボーッとする中で、これまた何故だか、パッと思い浮かんだ人物がいた。本当に突然と、急に。


アンネの日記の、アンネ・フランク。


リビングにダーッと並べてある本たちは一軍で、二軍はスペースの関係上、トイレの棚の中にスペアのトイレットペーパーと一緒に置いているという斬新な管理方法をとっている私は、急いでトイレに駆け込み、棚を開けた。アンネの日記(日本語版)と、アンネの日記(英語版)と、アンネが隠れて暮らしていたオランダの家の跡地が今はミュージアムになっていて、そのミュージアムショップで買った「アンネ・フランク・ハウス ものがたりのあるミュージアム」という3冊の本を見つけた。



私がアンネを知ったのは小学生の頃で、詳しくは覚えていないが、確か母から『読んでみたら?』と薦められた気がする。薦められていなかったとしても、アンネの存在を両親から教えてもらったということは確実だ。というのも、自己紹介noteにも書いてあるけれど、実は私はオランダ生まれである。『あんたが生まれたオランダは〜』という話の文脈で、アンネのことも聞いていたはず。このことからも、おそらく日本国民の中でもアンネへの感度は割と高い方と認識している。この本も、生まれた地を訪れよう!と、小学生だったか中学生だったかの頃、家族でヨーロッパ旅行に行ったときにミュージアムを訪れて買ってもらったものだった。いろんな言語に翻訳されていて、当時ニューヨークに住んでいた(これも自己紹介noteに詳細がある)意識の高かった私は、英語版を買うか悩んだけど、日本語版にした記憶がある。今考えると、ナイスな判断。令和2年、27歳、東京で暮らす私は、すっかり英語から離れてしまっているので、助かりました。



己の人差し指のささくれが気になりつつも、オランダという共通点(アンネはドイツ生まれ。オランダへは国境を越えて逃げてきた。)以外に、なぜこうも私がアンネに惹かれているのか(とかいって、トイレに置いてたんだけど)について考えてみたけれども、正直私もよく分からない。世の中には、よく分からない、当人も説明できない、なんとなくなことがたくさん存在する。私とアンネの関係は、そんな七不思議な感じ。ただ、ひとつ言えることがあるとすれば(あるんかい)、私とアンネの誕生日は1日違いである。私は1992年6月11日、アンネは1929年6月12日。アンネが生きていれば御年90歳。すぎょい。


※でも現在、在宅介護中の我が祖母ミツコは、それより上。この間のお彼岸のとき、おはぎ好きのミツコを差し入れと共に訪ねたら、まさかの草餅をチョイスされたと母が言っていた。草餅とピースで映るミツコの写真も送られてきた。そう考えるとミツコも、いろいろ、すぎょい。


あともう一個言えることがあるとすれば(あるんかい②)、私が日記(小学校、中学校の頃は手書きでつけていた。ニューヨーク時代に至っては、英語で書いていた。毎エントリーの冒頭は、Dear Diary,(親愛なる日記さま)。海外の子どもぶってやがる。ちなみにアンネは架空の友達キティーに向けて日記を書いている。)やブログ(日本に帰国して高校生になってから買い与えてもらった携帯でつけ始めた。ブログタイトルは、溝ぐちのぐち。16歳にしてはセンスがあったと自負している。)やnote(半年前から始めて約150記事書いているらしい。いつまで続くのやら。)をつけるという文章を書く習慣を覚えたのは、アンネへの憧れが少なからずあったということ。いつナチスに見つかるか分からない怖い状況の中、隠れて生きているのにも関わらず、アンネの日記はどの日も素直で、どこか明るかった。初めてアンネの日記を読んだときの私も若干11歳とか。生きている時代は違えど、同じティーンの子がこんなにもしっかりと日常を捉え、こんなにも素敵な表現で記しているということに、ちょっとした焦りやジェラシーがあったのだと思う。アンネに負けてらんねーな、マリも日記つけっぞ!みたいな反骨精神・・・?


と、前置きが長くなったけれど、兎にも角にもアンネを思い出したということ。で、この本を改めて読んでみたということ。そして、アンネへの憧れがより一層増したということ。


アンネは13歳の誕生日に母親から日記帳をもらい、隠れ家の中で日記をつけ続ける。約2年間もの隠居生活で、アンネは12.5センチも身長が伸びたそう。そのくらいの思春期をアンネは隠れて過ごし、日記にはそのコロコロと感情が変わる、成長する様子が事細かに書かれている。当時のアンネより+15歳くらいお姉さんの今の私が読んでも惚れ惚れとしてしまう文体とその感受性、そして何より段々と芯が強くなっていく、大人になっていくアンネが読み取れる日記が、私は本当に好きだ。思わず、私もこんな少女だったかな?と自分に引き付けて考えてしまう。


アンネは次女で、母エーディトと姉マルゴーのことはブーブー書いていたりするのだけど、父フランクのことは大好きだった。


もちろんふたりのことは愛していますけど、それはふたりがわたしのおかあさんであり、お姉さんであるからにすぎず、一個の人間としては、ふたりともくたばれと言ってやりたい。パパについては、ぜんぜんちがいます。パパがマルゴーのことをいいお手本に挙げたり、彼女のしたことを褒めたり、認めたり、抱きしめたりするたびに、なにかがわたしの胸のなかでうずきます。パパがとても好きだからです。パパだけがわたしの尊敬できるひとです。世界中でパパのほかに愛するひとはいません。(1942年11月7日)


母と姉へのあたりの強さがマジですげぇけど、パパへの愛も時が経つにつれて微妙に変化して薄れていき、少し距離を置くようになる。それがこの後の日記の記事から読み取れて、すごくリアルで良い。私も父(単身赴任でロンドンなう。海外を転々としているスーパー社畜おじさんなので、かれこれ8年くらい日本にいません。)のことがとても好きだけれど、それも今、20代後半になって、ようやく公言できるようになった感じで、高校生のときは妹と一緒に『親父クセェ』くらいのテンションだった。


あと、アンネは隠れ家で一緒に暮らすペーターに恋をする。第一印象は別に普通なのだが、次第に惹かれるようになり、ファーストキスもペーターとする。


彼はいくぶんぎこちなく、わたしの頬や腕をなでさすり、髪をもてあそびます。そしてそのあいだも、終始ふたりの頭は触れあったきりなのです。そのあとどういう動きがあったのか、あんまり急だったので、自分でもよくわかりません。ふと気がつくと、彼にキスされていました。髪の上から、左の頬をかすめ、さらに左の耳にかけて。急いで彼の手をふりほどき、あとも見ずに下へ駆けおりましたが、いまでもまだ、きょうはどうなるだろうと胸をわくわくさせているところです。(1944年4月16日)


おーおーおーおー!!!ペーターやるやんけ!!!(父フランク涙目)とか思いながらこの先を読んでいくと、打って変わってアンネは冷静になり、その熱病のような恋幕もおさまっていく。この乙女の恋心もまた思春期らしく、とても良い。ちなみに私のファーストキスは、映画館での映画エンドロール中でした。多分どこかの日記に記録が残っていることかと思われますが、発掘されたとしても淡すぎて目も当てられまてん。


そんな人との付き合い方、向き合い方が2年の間に色々と変化するアンネも、アンネ一家を匿ってくれていたユダヤではない周囲の人たちへの感謝の気持ちは変わらずに持ち続ける。


ここでわたしたちを援助してくれている人たちも、その好個の例と言えるでしょう。これまでわたしたちが生きのびてこられたのも、ひとえにこの人たちのおかげです。わたしたちの存在は、きっとたいへんな重荷になっているにちがいないのに、この人たちの口から、そういう愚痴は一言たりと聞かれません。(1944年1月28日)


限られた食料や娯楽をこっそりとアンネ一家に届けてくれていた人たち。リスクしかない中で、アンネたちを支えた理由はやはり人と人のつながりにあったのではと思う。どんなに自分たちに不利な状況でも、宗教や人種、立場を超えて助けたいと思う気持ち。アンネのような未来ある少女が近くにいたら、この才能は決して無駄にしてはならない、と今の私もきっとそう思うだろう。そして、出来る限りの支援(教材を渡す?メディアの情報を伝える?)をしたいと考えるはず。


ただ、アンネも恋したり感謝したり、ずっとポジティブだったわけではない。そりゃそうだ、隠れて怯えて暮らしている。


ときには、路傍をさまよっていたり、隠れ家が火事になったり、夜中に兵隊がやってきて、わたしたちを連行していったりする場面が目に浮かび、つい絶望のあまりベッドの下に逃げこんで、身を隠してしまうことを想像します。すべてを実際に目の前で起こっているようにまざまざと見てとり、そのあともずっと、こういうことがじきに現実になるかもしれないという恐怖から逃げられません。いつかまたいい世のなかがきて、わたしたちが普通に暮らせるようになるなんて、とても想像がつきません。(1943年11月8日)
だれかが外からはいってきて、その服に風のにおいがしたり、頬が寒風で紅潮していたりすると、わたしはつい、『いったいいつになったらわたしたちは、新鮮な空気のにおいを嗅ぐなんて贅沢が許されるんだろう』なんて思ってしまいます。そんなとき、それを忘れようと毛布に顔を埋めたりしてはいけない、むしろその逆に、頭を高くもたげ、雄々しくふるまわなくてはいけないのですから、おのずとこういう考えが、それも一度ならず、何度となく浮かんでくることになります。きっとあなただって、1年半もとじこめられて過ごしてきたなら、ときにはやりきれなくなることもあるでしょう。どんなに正しい判断力を持ち、感謝の心を忘れずにいても、心の奥の率直な気持ちまでも押し殺すことはできません。サイクリングをする、ダンスをする、口笛を吹く、世間を見る、青春を味わう、自由を満喫する、こういったことにわたしはあこがれます。(1943年12月24日)


世界中でコロナ感染者数が日に日に増加し、日本で言えばオリンピックの延期が決まり、東京で言えば都知事から不要不急の外出を控えるよう要請が出るこのご時世。アンネが味わっていた閉鎖感とは、もちろん異なる。ようで、異ならない。この先、何週間、何ヶ月、何年の戦いになるか分からないけれど、戦争と同様に、長期戦に突入していることだけは明白である。志村けんという国民的スターがこの世を去った今、日本(というか世界、というか地球)が何処へ向かっていってしまうのか、コロナが引き起こしているこのアンコントローラブルな状況に、はっきり言って、私は、思考が停止している。(個人個人の意識と働きかけである程度はコントロールできると分かっていてもね、もう制御不可能な領域なんじゃないかって)


でも、アンネは言っている。最後の日記の2週間前に書かれたこの記事で。


この世界が徐々に荒廃した原野と化してゆくのを、わたしはまのあたりに見ています。つねに雷鳴が近づいてくるのを、わたしたちをも滅ぼし去るだろういかずちの接近を耳にしています。幾百万の人びとの苦しみをも感じることができます。でも、それでいてなお、顔をあげて天を仰ぎみるとき、わたしは思うのです。ーいつかはすべてが正常に復し、いまのこういう非道な出来事にも終止符が打たれて、平和な、静かな世界がもどってくるだろう、と。それまでは、なんとか理想を保ちつづけなくてはなりません。だってひょっとすると、ほんとにそれらを実現できる日がやってくるかもしれないんですから。(1944年7月15日)


希望を忘れずに、戻ってきてほしい世界のビジョンを持ち続けるということだと思うのだけど、今日の社会に置き換えたとき、経済とか医療とか問題は山積みな中で、『アンネが言ってるみたいに心を強く持てなんて精神論、綺麗事すぎて逆にイラつくわ』と言われるかもしれない。震災のときも、こんな感じの風潮があったように記憶している。でも、細かいことはさておき、ビジョンは持ち続けたほうがいいんじゃね?って思う。そこが地球規模でブレたら、市民のどんな行動も意味なくなっちゃわない?


アンネは、厳しい状況下でも、人を愛し、人に感謝し、時に弱気になりながらも、理想を掲げて日常を生きていた


だから皆さんもアンネを見習ってそうなりましょうね、それで万事解決、皆ハッピーめでたしめでたし!というnoteでは、決してない。このnoteを通じてアンネの生き方に共感してもらって、それを強要したいわけでも、決してない。このnoteは、私がただただアンネはやっぱりすごいと思ったということと、私がただただ自分とアンネを重ねて今後どう生きていくかを考えただけの『ただただnote』である。


じゃあこの後、溝口さんはどう生きていくの?って話だけど、アンネは76年前の春にこんなことを書き記している。


こういう状況のなかでのせめてもの救いは、こうして考えることや感じることを紙に書きしるすことができるということです。そうでなかったら、完全に窒息していたでしょう。(1944年3月15日)


アンネさん。そうなんです。私も全く同じことを思います。こうして今自分が経験していること、体感していることを、自分の言葉で書き起こすことができるということは、本当に恵まれていることだと感じます。言葉を知るという十分すぎる教育を受けて育ってこれたことは、当たり前ではないはずですよね。そしてアンネさんと今の私の異なる点としては、「それを自由に発信できる時代・状況にある」ということです。なので、私はこれからも書き続けて、発信し続けていきたいと思います。自分自身の人生の備忘録的に、というのが大きな目的ですが、「ただの東京在住のOLがちんたら暮らす中で感じたことをゆるゆると発信することが許される、そして誰かがそれを受信してくれ、更にはリアクションまでしてくれる最高に優しい世界に生きている」という今の時代にしかない特権を最大限活かすために、です。


無駄な命なんて一つもないと思いますが、志村けんとアンネフランクの死や人生をきっかけに、色々と思いを巡らせることができました。私はこの二人の死と人生を無駄にしないことを改めて心に誓いたいと思います。


アンネさん、今あなたが生きていたら、どんなnoteを書いているでしょうか。(きっと書いてるよね。鬼更新してるよね。)いつか教えてください。その日まで、私は書き続けます。




サポート代は低糖質チョコの購入に使用させていただきます。