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群れについて(てのひら通信に寄せて)

 劇団てのひら「てのひら通信 5月号」に寄稿した原稿の全文です。寄稿したものは部分ですのでこちらの方が読み応えがあると思います。

以下本文

 群れる生き物は総じてうつくしいものである。同時にわたしは、そこに加わることは永遠にできない。だが加わらなくても、それらに大きな感情を向け、また影響を与えることができ得るのである。

 うつくしい群れと聞いてまずわたしが思い浮かぶのは、シロヒトリの群れである。みなさんにとってかれらは、幼虫のうちの、害虫としてのイメージが強いかもしれない。しかし彼らの成虫となり群れた姿はとてもうつくしい。初夏の高尾山でわたしはそれをみたことがある。何百何千と群をなして早朝の朝靄の中をたゆたうかれらのなんとうつくしいこと!まっしろでおおきな、なにか別のいきもののようにみえるのである。わたしは夢想する。もしわたしがモンシロチョウだとして、この中にわたしがいたとしても、傍から見れば、どれがわたしであるか見分けがつかないだろう。群れを構成する一端に見えても、内部ではまったく違う認知が起こっているのだ。わたしはまったくのひとりであり、群れにとってわたしは無関心の先のものでしかない。薄情だろうか。でもそれでいいのだ。そうでなければならないのだ。わたしはかれらとは相容れない存在なのだ。

 さて、もうひとつうつくしい群れについて紹介する。みなさんは森林性の蛍をみたことがあるだろうか。本土の蛍はたいてい水辺に生息するが、わたしはそれらを奄美大島の保護林の中で観察する機会に恵まれた。もちろん勝手に入れる場所ではなく、現地のガイドに連れられて立ち入ったそこは、まったくの別世界であった。星が落ちてくるかのような快晴の夜であった。森の木々と空の境目が曖昧になるほどの蛍の群れがそこにあった。ガイドが持つ懐中電灯を点滅させると、それに呼応するように森の方の星が明滅した。おそろしい光景だった。星空が割れて、ぐちゃぐちゃに混ざるようだった。そのくせして本物の星空はそのまま木々のすきまから覗くのである。視界は混乱どころの話ではない。本質はここではない。かれらは生殖のため、必死に明滅する。わたしたちはそれを誘発できるのだ。なんておそろしいのだろう!とても奇妙だ!シロヒトリ/モンシロチョウのときとは真逆の体験である。なんとも得難い経験であった。

 群れとはなんとも不思議なもので、例えば渋谷の街を見下ろしたときの人間は確かに群れである。同じ意識の集合体なのである。なんとも奇妙だ。無意識のうちに集合体として機能しているのだ。わたしはこれをみるたびに、底知れぬ恐ろしさに駆られる。わたしはこの一部として機能するとともに、そこには決して交わることのできない存在なのだ。

 劇団てのひらという団体を作った。われわれは個であり、群れではない。群れなくても、手を繋ぐことができる。物質的なものであるかもしれないし、精神的な繋がりを求めるかもしれない。わたしたちは群れのように同じ方向を向いてなどいない。個々の目的のために手を繋ぐことを選んだ。それでいいのだ。わたしたちがそこにただ有るだけで何かが生まれる。自信を持つべきだ。それらを拾い集めていくのがてのひらの役割である。

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