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アンコールワットで平泳ぎ

私が幼い頃、カンボジアは内戦の国だった。報道は毎日のようにひどい惨状を映し出していた。自分にできることはないのだろうか。幼い心に無力感を抱えて私は大人になった。

私が大学生の頃、カンボジアは戦後復興の最中だった。日本の地雷除去機が活躍し、多くの地雷原が豊かな田畑に変わっていった。上智大学がアンコール遺跡群の修復に尽力していたのも有名だ。あらゆる形で数多くの日本人がカンボジアの復興を手伝っていた。

そんなカンボジアに私を導いたのは、戦場カメラマン一ノ瀬泰造。彼の書簡「地雷を踏んだらサヨウナラ」をいつもカバンに忍ばせ、その情熱に引っ張られるように未来を探した。命をかけ、戦場を駆け抜けるように生きた彼の人生に憧れた。私にとって人生をかけてでもやり遂げたいこととはなんだろう。

大学3回生の春休み。カンボジアに行く! そう決めて向かった先はタイの首都バンコク。微笑みの国で勤勉な私を脱ぎ捨て、自由気ままなバックパッカーに変身する。幼い頃から遠く夢見たカンボジア。道のりが長いほどたどり着いたときの感動も倍増するだろう。バンコクでラオスとベトナムのビザを手に入れた。

東南アジアを一周し、カンボジアにたどり着いたのは数週間後。陸路で国境を超え、イミグレーションを抜けた瞬間、ものすごいエネルギーに包まれた。それはつまり外国人やお金に対しての熱い視線。あっという間にカンボジアの人々に取り囲まれ、軽トラックの荷台に乗せられた。

空の青と緑の大地。スコールに降られると全身ずぶぬれになり、晴れると日差しがとても強い。濡れたり乾いたりしながらただ運ばれる。近くの大きな町まで3時間、ちっぽけな私の輸送代はたったの3ドルだった。

さらにそこからボートで6時間。トンレサップ湖を横断するとアンコールワットの町、シェムリアップだ。ボートの甲板から眺める水上生活者の暮らしや平和を築きつつあるカンボジアの風景がとても美しかった。

やっとたどり着いたシェムリアップからアンコール遺跡までは7キロ。舗装されていない赤茶けた道を自転車でひたすら走る。のどかな草原には、そこが地雷原であることを知らせる看板が目についた。小さな子どもにもわかるよう黒いドクロマークが描かれていた。

アンコール遺跡のゲートを超えるとアンコールワットを囲む聖池が見えてくる。そこで現地の子どもたちが楽しそうに泳いでいる。私に向かって笑顔で手を振っている。そうなるとそこに飛び込むしか道はない。どうせ夕方にはスコールに降られてずぶぬれになるのだ。

たくさんの子どもたちが聖地で遊んでいる。彼らはやせていて小さいのだけれど、とてもたくましい。つかまると簡単に水中に沈められてしまう。平泳ぎで逃げる。その繰り返しだ。幼い頃、遠くから見ていたカンボジアで子どもたちと無邪気に泳いでいる。それがとても嬉しかった。内戦が終わって本当に良かったと心の底から思った。

毎日、夕方になると突然スコールがやってくる。土砂降りの雨。子どもたちも慌てて聖池からあがる。一人の男の子が私のリュックを抱え、自転車に飛び乗った。その瞬間、盗まれた! と思った。慌てて追いかけようとすると小さな女の子が私の自転車の荷台に飛び乗った。早く行け! とその小さな手で私の背中を叩く。

激しいスコールで目の前がよく見えない。女の子を後ろに乗せ、ただ自転車を走らせる。私にしがみついているその小さな手の温もりがとても愛おしい。スコールの中を駆け抜ける純粋な私たちは一心同体だった。

いつの間にかスコールは上がり、男の子を追いかけてたどり着いた先はアンコールワットの入口だった。男の子は濡れたシャツの下から私のリュックを大事そうに取り出して恥ずかしそうに笑った。盗まれたと思ったことを後悔した。子どもたちの小さな手とその純朴さがカンボジアの未来そのものなのだ。

これからポストカードを売りに行くと彼は言う。夕陽が落ちる時間はたくさんの観光客がアンコールワットを訪れる。そこからが仕事の時間。昼間は学校で学び、仕事の前に聖地で思いきり遊ぶ。アンコールワットは彼の遊び場でもあり、生きていくための大切な場所だった。

内戦後を生きる幼い彼には余分なことが一切ないように見えた。ただまっすぐに今を生きている。夢や未来のことなんてはっきりわからなくてもいい。ただ「今」を懸命に生き抜く。その積み重ねが未来を創っていく。

帰国後、私は迷わず休学を選び、国際協力NGOで活動を始める。後に戦後復興支援のためアフガニスタンに向かうことになる。その旅の切符をくれたのがカンボジアの子どもたちだった。思いがあれば、迷わず飛び込む。きっとそれでいいのだ。

 
-あとがき
どこかで聞いたことのあるタイトル。そう「ガンジス河でバタフライ」だ。旅人であり、地球の広報を務めるたかのてるこ氏のエッセイ。数年前、てるこ氏に会いに行き、ハグまでしていただいた。尊敬の意をこめてこのタイトルにする。

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