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断捨離ふたたび

空前の断捨離ブーム到来の約半年後に大きな変化がやってくる、というパターンがこれまでの経験でわかってきた。
思い返せば最初の断捨離は結婚前。母と二人で暮らしていた家から出ていくにあたり、母に気付かれないように私の荷物を減らす必要があった私は(この辺りの理由について話すと全5回連続シリーズ級になり今回のテーマとズレるので割愛するが)、大量の音楽CDをデジタル化してから中古ショップで処分し、書籍も小分けに中古書店で処分し、服も同じく古着屋で引き取ってもらい、金銭にしては二束三文というか交通費や労力を計算したらもはや赤字だったのだがめげずに半年かけて断捨離を敢行した。

結婚後の生活は身軽で、最初に暮らした家から次の家に引っ越すとき、荷物が少なくて引越しがあっという間に終わった。

しかしその後、荷物を増やさないようにしようと気をつけていながらも、じわじわと増えてしまっていた。何回目かの引越し先がゴミの回収が全て無料という現代において稀有な地域だったのだが、あるタイミングで何月何日から燃えるゴミを有料の袋で捨ててください、となった。これはいかんと思い、有料になるXデーまでに捨てられるものは捨てようと必死になって整理した。これが2回目の大きな断捨離。その時の家は気に入っていたので、当分引っ越す必要はなさそうだと思っていたのが、どういうわけかあれよあれよと第2回断捨離大会の半年後にはなぜか引っ越すことになった。

持ち物が増えたことに気がつき反省した私たちは、これまでよりも少し面積の狭い家をあえて選んで引越した。引越しのタイミングでもかなり断捨離を同時進行し、すっきりした暮らしを再度獲得したと思った。
しかし、なんと1年経つと、どうしても物が多いと感じるようになってしまった。最近断捨離していたのでもう捨てるものなんて無いのに。私は血眼になって封筒一枚も書類一枚も見逃さずせっせと捨てた。少し狭い面積にした家が気に入っていなかったのではない。むしろ狭くてもいいなら賃料も抑えられるし、賃料を抑えた割に家からの眺めはよく、近隣環境も良くて、充分に満足して暮らしていた。それなのに、どうにも家を一掃したくてたまらなくなってきた。そしてその半年後、突然今の家に引っ越すことになった。

もしも私が体力がもりもりあって、引越しが決まってから断捨離を開始してもスピーディーに成し遂げられるような人物なら、半年前からソワソワし始めないのかもしれない。自分が一番自分にできるペース配分を知っているということだろう。

さて、新しい家に来て、そしてとてもここが気に入っている。
気に入っているのだが、また来たのである。捨てたい。物が多い。

世の中には断捨離マニアがたくさんいるようで、それぞれ断捨離したい理由やきっかけもさまざまである。私の場合は、「捨てたい」の裏にあるのが常に「素早く逃げられるように」という括弧文が付いている。もうどこにも引っ越さなくていいのにな、とも思うのに、また「これ」がやってきたのだ。「これ」は私の意思とは無関係のところから発生する。もはや無意識の領域からのお告げとしか言いようのないものなのだ。

この状態の私に最近とても参考になったのが、ゆるりまいさんのコミックエッセイ『わたしのウチには、なんにもない。』(KADOKAWA)である。

全四巻あるようなのだが、ひとまず2巻まで読んでみた。

まさに彼女が書いている「捨ての壁」にわたしは直面しているのだろう。

棚の中も綺麗に整えるとスッキリ見えるという話を読んで、試しに冷蔵庫の中を掃除しがてら、まるでディスプレイが如く、タッパーを等間隔に並べてみた。すっきりした。冷蔵庫の中については、まだまだ「行ける」気がしてきた。なんだろう。ちょっとしばらく試行錯誤してみようと思う。すっきりさせられる余地のきっかけが得られて良かった。

ついでにコンロの下についている鍋類とタッパー類を収納しているスペースのものを一度全て出してみて、再考する。ガラス瓶のための別売の蓋が劣化しているものが見つかったので捨てる。たった小さな蓋2つを処分しただけなのに、すっきりした。

犬の手作りご飯のために買い足していた小さいタッパーは、最近食べるものが変わってきたために、少し量が多いと感じるようになってきた。安いタッパーのため、密封度もあまりない。元々しっかり密封できる長年愛用しているタッパーは持っていて、充分の量がある。思い切って、12個ある小さいタッパーの中から収納からいつも溢れて雪崩が起きやすかった3個を処分することにする。

しかし小タッパー3個をゴミ箱まで持って行った際に、はたと思いつく。使い切ったらもう買わないことにしている粉末の洗濯洗剤(性能が悪いわけではなくドラム式洗濯機に買い替えたら使えなくなってしまった。今は手洗いのものに使っている。)が入っている大きめのタッパー。これを今から捨てようとしている小さいタッパーに移し替えれば収納スペースの圧迫が減らせるのではないだろうか。試しに移し替えてみる。小さいタッパー2個を使って粉末洗剤を移し替えることができた。これまで使ってきた大きいものと、ついでに洗剤用スプーンも捨てる。もう計量しなくて良かったのに、なぜかこのスプーンをずっと持っていた。いらない。つまり今日のところ、これまで粉末洗剤を入れいてた大きなタッパーと、捨てようと寄せた小さいタッパー、洗剤用計量スプーンの3点を捨てることに成功した。

その後、今日があまりの暑さと晴れっぷりだったので、何か洗ってしまえるものはないだろうかと探し、メイクポーチを洗濯する。わたしの持ち歩きもできる小さなメイクポーチは布製でしっかりした作りなので手洗いできるのだ。ついでにメイク道具も掃除する。意外とファンデーションや色のものがパッケージに付着して、うっすら汚れている。隅々まで綺麗にふきあげる。

『わたしのウチには、なんにもない。』の一巻最後のあたりでも触れられていた話題に、ものを減らしたら幸せになるのかというテーマがあった。ゆるりまいさんの結論にもうなづけるし、じゃあわたしはどうなのか、と考えた。わたしの場合は「すぐに逃げられる」ように物を減らしたい、という想いがある。これは何も、何かに追われながら生活しているという意味ではない。ある特定の場所に物のせいで縛られたり身動きが遅くなるのが嫌だという意味だ。移動したいと思ったら、跡形もなく消え失せたいと思っている。この辺りは、この世を去るときになるべく個人の持ち物が少ない状態でこの世から去りたいと願っていることに繋がっている。わたしが物を減らして幸せになれたかと言えば、大まかにいうなら答えはイエス。片付けるエネルギーを減らすこともできるし、何よりも「これでいつでも24時間以内に跡形もなく消えられるぞ」と思うことができれば安心するのだ。安心、すなわち幸福である。

思い返せば、こんなことがあった。
出張でホテル宿泊になると、だいたい朝食ビュッフェが付いている。その日の仕事のための出発時間にもよるのだが、大抵わたしは仕事のための朝の身支度はしっかり時間をかけたい派なので、シャワーをして、好きな音楽を聴いたり前日に買っておいた飲み物を飲んだりしながら髪の毛を整えメイクをし、その日の仕事内容が時事ネタが必要な現場ならローカルニュースの朝の番組を観る。新聞も全国紙ではなくローカル紙を流し読みする。そして支度が整い、荷造りも完了した状態で朝のビュッフェに行く。仕事の日は食事をあまりとらない方が調子がいいのでコーヒーと、何か軽いフルーツなどをつまむ。さくっと朝ごはんを終えて、仕事のための出発時間まで部屋でのんびりする。
この、最後の部屋でのんびりする時が、好きだったのだ。「いつでも出発できる」という安心感。準備万端で時間に余裕がある心地よさ。先に述べた「逃げる」という表現には語弊があるかもしれないが、つまりいつでも「去れる」ということなのだ。わたしの中では「逃げる」の方が支度時間が短い素早い行動というイメージがあるので「逃げる」を使いたくなるのだが。

今のわたしは全く準備万端じゃない。もっともっと、削ぎ落としていこう。

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