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準備と断捨離と変化の年

「今年も残すことろあと僅かとなりました。」

という定型分を散見するクリスマス後の年末本番ウィーク。

以前、自分を取り戻すのに半年かかってしまったという話をしていたのだが、
思い返せば結局1年かかってしまったのかもしれない。

具体的に振り返るならば、過去の自分を脱ぎ捨てるのに約1年かかった。
半年までは脱ぎ捨てることだけに必死だった。
8ヶ月くらい経った頃から、ようやく新しい自分の「服」を探したくなった。
いわば、前半は過去の断捨離期間。徹底的に断捨離を続けて、その後ようやく新しい空間に何か別のものを入れていこうという段階に差し掛かってきたようだ。

不思議なことに、私の断捨離が終わるにつれて、夫の次のステージもどんどん進み始めたように見えた。

これには二つのことが考えられる。

一つは、人間は常に近くにいる人や物からの影響を受けざるを得ないということ。
どんなに己が強くても、その時の環境や家族の状況から発せられる目には見えない何かに、多かれ少なかれ、何かを貰いながら日々を過ごしている。良いものも、悪いものも、全部ひっくるめて、それらから受ける何かを完全に避けることは難しい。
私があまりにも重い過去の堆積物をどんどん手放していくことによって、軽くなり、その「軽くなっていまっせ」エレベーターのような気流が強過ぎて、夫も一緒に巻き込まれていたのかもしれない。

もう一つは、結局は私から見た人生しか認識ができない結果ゆえである。
ある存在について、人が何かを見た(認識した)時にしか目の前に展開する物が存在していないという話から来た考えなのだが、つまり私が今知っている(認識している)はずの夫とその周辺の出来事全てというのは、私から観測したある一つの何かにしか過ぎないということなのだ。変化した私が観測した夫やその周辺の事実、というのは、変化していない私には観測できないもののはずである。

いずれにせよ、今これを書いている私に見えているのは、ある一側面としての、ある一つの出来事でしかない。

私たち家族は、今年の年末に新しいどこかへ向かって、歩き始めている。
それだけは、なんとなく、でも確実に、感じている。

2022年の10月から2023年の10月の1年間、どこかへ行くための準備をし、
そして予めスケジュール表に書き込まれていたかのようにきっかり1年が過ぎた時に、次への扉がニョキっと突如目の前に生えてきて、そしてそれを思い切って、開いた。
その扉は、私という1人の人が認識した世界で見たものとも言えるし、夫婦2人の存在が揃わないと登場しなかったものとも言える。少なくとも、1人っきりでその扉を開けることは難しかっただろう。

つくづく、人生はよくできたゲームのようだと思う。
ある特定の場所まで来た時、ある特定の条件が揃っていたら、この隠しコマンドが応答します。ということがあちらこちらに、散りばめられている。
そこに正解はないし、ただ何が起こるのかが変わるだけなのだが、人間とかく欲深いもので、より良い扉を見つけてより良いお宝を掘り当てたいと思ってしまう。

何が「良く」て何が「悪い」のかなんて、結局は最後の最後までわからないものだということは理解してきたつもりなのに、「損をしたくない」だとか「失敗したくない」だとか、あれやこれや考えても仕方のないことを考えてしまうのだ。
それが損なのか失敗なのかは、随分後になってみないと分からないんだよと何度自分に言い聞かせても、つい目先のことだけに囚われがちなのである。

これまでこのnoteを書くときに、何か書きたいテーマがあった上で、ある程度まとめて書こうとしていたように思うのだが、もしかしたらもっと、他愛もない日記のような扱いでもいいのではないか、という気もしてきた。
果たしてそれを、読みたいと思う人がいるのかどうかはわからないが。

誰か、何かの役に立つ話を書くべきだという固定観念がどこかに少し残っていて、それは結局はどこかの誰かに受け入れられたいという欲求に過ぎないのかもしれない。
役に立つ話が検索され、シェアされ、支持され、どんどん何か「良い」物のように扱われ、自分も周りもそのように思っていく。
大多数に受け入れられないものは、「良い」物からは外れてしまうのではなかろうかという焦り。それは受け入れられなければ消えてしまうのではないかという考えから派生した「生存欲求」にも近いもののようにも思う。
「承認欲求」が「生存欲求」に変換されてしまう時、何が重大な事故が起こるのではなかろうか。

私は幼少期から心に湧き起こっている「今という瞬間とは何か」「私が今存在するとは何か」という疑問に常に囚われている。
だから「実は存在なんてしませんよ」と言われることが怖いのかもしれない。

「今とは何か」「存在とは何か」を考えているもっと根本のところには、
「私は存在したい」という底からの単純なる大声があるのだろうか。

私はあらゆる矛盾とも思える絶え間ない問いに、巻き込まれながら生きている。

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