ミライへの投資
自由であるということは、全責任が自分の決断に委ねられているということでもある。
自由ではないと感じている時には、自由な状態に憧れ、自由ではない現状への不満を並べ、決して出られない不自由の渦の中に不可抗力で巻き込まれているかのように感じてしまうものだ。
しかしいざ本当に自由になったら、どうなるだろうか。
自由でなかった時には、他の誰かが決めてくれたルールの中で、楽をしてサボってきたことに気付かされるかもしれない。
判断する、決めるというのは、実にエネルギーを消耗する行為だ。
時々、前に進むのに疲れて、ただ歩いてきた足跡を見るだけにしながら惰性で後ろ向きに歩こうとすることもある。
それでも今日は終わり、明日が来る。
ポジティブな日もネガティブな日も等しく1日としての時間が過ぎていく。
『2035年の世界地図 失われる民主主義 破裂する資本主義』(朝日新聞出版)
の中で、ジャック・アタリ氏は以下のように述べていた。
この話はジャック・アタリ氏が主張する「命の経済」と「死の経済」という話題から出てきており、私たちは基本的には利己的なのだけれど、じゃあ自分に対しては利他的なのかといえば本当の意味では違うんじゃないかという話から出てきた文章である。
この辺りの論は面白いと思うので、気になる方はぜひ本を手にしていただきたい。
「自己投資」「スキルアップ」などというキーワードと共に、消費とセットで特集記事が組まれるテーマの一つでもある未来への出資行動。新しいことを勉強したり、習い事を始めてみる人もいれば、スポーツジムに入会してみる人もいるだろう。
けれどそれらは必ずしも金銭的資本を要するものだけではないはずで、ジャック・アタリ氏の言う〈「明日の自分自身」に対して利他的になること〉というのは自己投資という行為の本質を極めて捉えやすい言い方だと感じた。
「因果応報」「情けは人のためならず」ではないが、一周回って自分に跳ね返ってくるのだという考えは、昔から人々が自然と気がついていたことなのだろう。
と日本語で書いていると何やら強欲感や悪い意味での押し付けがましさなども拭えないように感じてしまうのだが(もしかしたらジャック・アタリ氏が普段これらを考えている言語では日本語表記とはもう少し違った雰囲気を纏った言葉になっているのかもしれないが)自分自身に対して「合理的利他主義」であろうとするのは、行動指針を決めやすくしてくれる考え方のように思う。
今日の私と明日の私がいまここに1人ずついたとして、明日の私さんにとって良さそうなことを今日の私さんがやる。
じゃあ、夜更かしし過ぎず早く寝ようとか、野菜をもう少しバランスよく種類を豊富に食べてみようとか、涼しい時間帯になったらいつもより少し長く外を歩いてみようとか、そんなささやかなことをポツポツと思い浮かべることができる。
長い目で見て壮大な人生プランのために今日できることをコツコツと、という行動を毎日できれば良いのだが、時々、果たしてこれで良いのだろうかと悩んだり、考えることに少し疲れたり、何をしても前に進んでいないように感じて呆然としたりすることもある。
そんな時、このジャック・アタリ氏の自分自身に対して利他的であれという考え方を思い出してみたい。