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マインドの外部委託で思う壺


「そうだったのか。道理で答えが出ないでもがいていたわけだ。」

と思いながらも、ここで合点が入って「はいそうですか」と引き下がれないな、
どうにかならんのか、と思っている話がある。

私たち夫婦は折りに触れ、資本主義社会と自分たちとの関係性をテーマに話をする。

それは夫がアーティストであるから、という理由もあるかもしれないし、2人ともがフリーランスであるから、という原因からかもしれない。

世の中には多様な生き方が生まれ、若くしてリタイヤするFIREという在り方も日本人にも次第に広く知られるものとなりつつある。
田舎暮らしに若いうちからシフトしたり、ミニマリストに転じて節約が上手にできるようになったり、家を持たない暮らしを楽しめるようになったり。
昭和の塊のような祖父母や両親の世代からは(否定的な意味で)とても考えられないような生き方が確実に増えている。

私たちも、自分たちの在り方を親世代に無理に説明して説得しようとは思っていない。
親にはどうしたって分からないだろうという気持ち3割、肯定的な意味で話す必要を感じないというのが5割、時代が変わったのだから抗うことなく素直に流れを読んで乗っていこうというのが残り、みたいな感覚だろうか。

しかしながら私たちは現状、資本主義経済の社会の中で生きているわけで、どうにかして生き残っていかねばならないのである。
もしかしたら資本主義経済から一切合財足を洗ってゼロから生活を作り直すことも、本気でやろうとしたら出来なくもないのかもしれないが、そこまでのことを今からやるのか、と問うてみれば、素直にイエスとは言えないのであった。

そんなわけで、ああでもない、こうでもないと、資本主義経済との距離感や付き合い方、どうしたら自分たちの精神までもが侵食され洗脳させれてしまうことなく己のあり方を保てるのか、などという話を家族の会話でするわけで、明確な結論は出せず、話は尽きないのである。

さてそんな私に、目の覚めるような一文が飛び込んできた。

「道徳の外部委託」が生み出す富と、道徳を重視する共同体への回帰とが、根本的にはトレードオフ(一方をとると他方を失う)の関係にあるのです。

『2035年の世界地図』(朝日新聞出版)p.168

巨大なハエ叩きでベシャリと一気に潰された気分である。

世界的経済学者のブランコ・ミラノビッチが述べるこの話は資本主義とはそもそもどんなものなのか、という話から来ているのだが、「資本主義の無道徳性」について(不道徳とは異なる)この本でも語っている。気になる方はぜひ本をお読みいただきたいのだが、

言い換えれば、グローバル化と資本主義の進展に伴い、より頻繁に起こっているのは、ある種の行動について、我々は自分の内なる規範に基づいた統制ができていない、ということです。私たちは規範を基本的に外部委託して、こう言ってしまうのです。「まあ、これは禁止されていないし」または「法的に間違っているとされないから」と。

『2035年の世界地図』(朝日新聞出版)p.167

という説明から来る「道徳の外部委託」。身につまされる。
法律を破っても良いという話ではないのだが、常に自分の中の道徳基準は持ち続けたいと願っている。けれども結局は外部委託に依存してしまっている自分も認めざるを得ない。
そしてその少しモヤモヤする存在である「道徳の外部委託」が資本主義経済の中で富を生み出している、と言うのだから、そして道徳を重視した生き方とトレードオフ、だと言うのだから、私がいくら悩んだところでなかなか収まりの良い答えは出ないわけである。

しかし諦めたくはない。何か方法があるのではないだろうか。

結局は資本主義に片足を入れながらどうにか生きた一生だったなあ、という感想で人生を終えることになるかもしれないし、全然違ったなあと思うのかもしれないが、
今世、せっかく面白く生きるもつまらなく生きるも自分次第と思えているのだから、もがきながらでも、自分たちが思う心地よい在り方というのを一生をかけて探して、できることならばなるべく早めに見つけて、あとはのんびりした心で生涯を過ごしたいものである。

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