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15年前、人口呼吸器を付けた父を前に母はたくましかった


すーすとん、すーすーすとん。

物音をたてるのも躊躇う静けさの中、規則正しい音を繰り返し発する人工呼吸器は眠る父の首もとに繋がっている。
まだ昼なのに暗い病室の中、スポットライトのような床頭台の灯りに照らされベッドに横たわる父の向こう側に、最近背中が曲がってきた母がパイプ椅子に座っている。その椅子では背中が痛むかなと思いながら、また眠る父の顔を眺める。病室に入るなり目に飛び込んだ父の姿の衝撃に、だはだばと泣きじゃくったので涙はもう出ない。

午前中、携帯で母からの報せを受けてから何時間経っただろう。病院までの車内で、父の話しはほどほどに看板を見つけては読み上げていた母は父の姿に何を思うのだろう。
急に空腹を感じ、こんな時でもお腹は減るって本当だと思いながら母を地下の食堂に誘い、醤油ラーメンを食べた。目に入るもの全てが父との思いでを呼び起こし、あぁ、もう別れの時が近いのかと染み入りながら、また病室に戻る。

眠る父を眺め、時々手を握りながら私は何をしているのかと戸惑う。
この時間、この場所で心臓が止まるのをただ待つしかないと思うことが残酷なような気がして、奇跡を願いながらトイレに立つ。

例えば、まぶしそうに眼を開ける父に安堵して涙を流し、笑いながら心配さないでよと父を咎めたり、その先にまたやってくる介護生活に少しうんざりして病院か施設を探そうかなどと母と兄に相談するとか。思わず「ああそうだよ。まだわからないよ」とひとりごちていた。

病室に戻ると、当たり前のように父は眠り、母は周りには聞き取れないほどの小声で父に話しかけている。だめだ、奇跡なんか起きない、一度奇跡を願った罰のように現実は重みを増して襲いかかる。



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仕事を終えて駆け付けた兄に、経緯と現状を伝えると「そうか」と黙って父を見つめている。指先の動きで、父に触れていいかどうか迷っているのがわかる。すでに慣れていた病室の空気が、少しだけピンと張りつめた。

ふと、先ほどから父に話しかけている母の声が耳に届く。

「おとうさん、頑張ってー、頑張ってよ」切実な声に鼻の奥がずんとつまる。
現実を受け入れたくない心情を思いばかりながらも、もう十分頑張ってるよと、私は少し咎めるような口調で母に言い返す。


わりと迂闊な発言の多い母は、私に咎められるといつもそうする表情で
「そうよねぇ。でもあと2日、2日で15日だから。そしたら年金もらえるのよ、お父さんも」
と言う。
少しの沈黙のあと、
「いま、それかよ。しょーもねーな、こんな時に」と笑いながら言う兄と、母も私も一緒に笑った。

笑いながら、
お父さん、私たちはいつだってこのお母さんのたくましさに救われてたよ。
きっとこれからもそうなんだよ。
感謝したほうがいいし、本当はちゃんと言葉で伝えたら良かったんだよ。
テレパシーを父に送って面会時間を終えた病院を後にした。

その2日後の15日、父は逝った。
良くやったと、家族みんなに、きっと父の人生でいちばん褒め称えられながら73歳の人生を終えた。




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あとがき風

父が亡くなった今から15年前は、現在より延命治療についての意思表示は曖昧にされていました。
転倒から約2週間後に発症した意識障害で自宅から救急病院に搬送されたので、父の最期の場所は初めての病院になりました。
でも、自宅に連れ帰り、一晩最愛の当時3歳の孫と長女の私が隣で眠ってあげてから葬儀場へ送り出したので満足したことでしょう。笑
父は病院のベッドで痰を詰まらせ呼吸停止の状態で発見された為、人工呼吸器を装着されました。病院にはっきりと伝えた記憶はありませんが、父も私たち家族も人工呼吸器装着は望んでいませんでした。


ご存知のように、現在では延命治療についての意思確認は明確になっています。折に触れ、ご両親の老後の暮らし方や医療への希望を雑談のなかで聞いておくと良いと思います。

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