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工作アーティストが、意識の変容を学ぶ理由vol.01

先日ある方が、ミーティングの終わり際に「麻理子さんが、意識の変容を学んだり、深めているのはどうして?そこを知りたい。」と質問をされました。

その時は、話す時間がなかったこと、また、自分も以前からまとめてみたかったこともあり、文章で伝えてみたいと思います。

私が意識の変容を学ぶ理由、それは、とある気づきをきっかけに、自己の内面が変化することによって、自分の周りの人、仕事、環境が、ガラっと変わっていく。その結果、少しずつ、願いが叶っていく、ということを、体感として知っているから。

そしてそれが、めちゃくちゃ面白い。だから、いつか自分の得意な「手を動かして作ること」と組み合わせて、まだ世の中に無いものを提供してみたい、という願いがあるからです。

「気づき」を得るきっかけは、今までの人生で何回かありました。
振り返ってみたいと思います。

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・幼少期

私は幼い頃から、何かを作ること、みんなで作って楽しむことが大好きな子供でした。4歳まで住んでいた父の会社の社宅には、同じような年頃の女の子たちが何人か住んでいて、皆で2階の手すりにホースを結んで、ロープウェイに見立ててみたり、社宅の敷地全体を使ってキャッツアイごっこをしたり、当時まだあった、草の生い茂る敷地で、シロツメクサを積んだり、セイタカアワダチソウを交差させて「秘密基地」を作ったことをよく覚えています。

・学童期

それから今の実家がある横浜市の住宅地に引っ越し、幼稚園・小学校に入りました。変わらず小学校の友人と、段ボールで秘密基地を作ったりする日々でしたが、同時に、中学受験をするため、日常の中に勉強をする時間が取り入れられ、高学年からは塾へ通ったり、その時間は少しずつ長くなっていきました。同時に、ピアノも習っていて、一日2時間くらい練習したりしていました。どこからのタイミングか「周りの子より、そして兄弟より、努力しているから、ピアノや勉強、運動ができる。みんなに『まりちゃんすごいね!』と言ってもらえる」それが自分のアイデンティティとなっていたように思います。

・中学〜高校

実家から電車で数駅の、キリスト教系の女子校に入学しました。厳しい校則や、保守的な文化の中で、心の底からワクワクすることは文化祭や体育祭くらいで「ここが自分の居場所なのかな?」という疑問もどこかにありました。その中でもクリエイティブな友人たちと、文化祭で本当はやってはいけないお化け屋敷を「古民家の再現」と称してやっちゃったり、体育祭の旗をとにかく豪華にしたり、映画を作ったりと、スキを見つけては楽しいこともやっていました。

・大学

とにかく作ることが好きだったので、そんな分野を幅広く学べそうだったSFCに入学。中高から一転、めちゃくちゃ楽しかったです。チームでプログラミングと電子工作で、新しい道具や仕組みをデザインするゼミに入り、国際学会への採択を目指して、泊まりがけで議論したり作ったりする日々、最高でした。ubicompやsiigraphなど、何度か海外で発表する機会にも恵まれ、ずっとこの生活をしたいと思っていました。

公演に来た建築家アストリッド・クラインの、ワクワクするようなプレゼンを見て、胸がドキドキして「私も、この人みたいに、自分のアイデアで、自分も社会もワクワクドキドキするような仕事をするようになりたい!」と心底思いました。

このゼミで、夫の新吾とも知り合い、付き合い始めました。

ちょうど私が卒業するタイミングで、同じ系列の新しい大学院ができることにもなっていて。そこに行きたいとも思いましたが、同時に「修士の2年の間に、これが作りたい!という確固としたものがないな」という思いもありました。

結果、就活をして、リクルートに入社することにしました。大学院へは、貯金をためて、行きたいタイミングで入ればいいや、と思いました。

・社会人 リクルート新人期

リクルートには、メディアテクノロジーラボ、という、当時ガジェットの研究などもしていた部署があり、そこに入りたい!という思いで入社したのですが、配属されたのは海外旅行の営業部。

正直、びっくりするほど仕事ができず、本当に辛い日々でした…が、助けてくれる本当に素敵な先輩も沢山いて、その時身につけたタスク整理術などは現在も役に立っています。文字通り必死で働きました。

少しずつ仕事もできるようになってきた1年目の冬、仙台への転勤を言い渡され、春から「じゃらん」の営業として仙台に。

仙台のメンバーは東京より人数が少ないこともあってか、まるでファミリーのようで、本当に大好きでした。

そんな日々の中、
「でも、ちょっと何かが違う。私、やっぱり何か作りたいな…」
と、自分の内側から、声が聞こえてきました。時々聞こえてくるその声が、やむことはありませんでした。

それでも、私は、自分が何を作りたいのか分からず、継続的に何かを作り続けることはありませんでした。

・社会人 ワーママ期 前編

そんな中、2年の仙台勤務を経て東京へ戻り、新吾と結婚、長男を出産し、育休へ入ります。

もうすぐ職場復帰…の3月、閉店間際の新宿ジュンク堂書店の、並ぶ本もまばらとなった本棚で、とある本が目につきます。それが、私の人生を変えるきっかけになった、ジュリア・キャメロンの「ずっとやりたかったことを、やりなさい。」でした。

この本を読み進め、ワークを続けていくうちに「私は自分が作ったもので、自分や、身近な人たちに喜んで欲しいんだ。」ということに気づきました。

幸い、傍に、なんでも喜んでくれる、一歳のぼうずがいます。職場復帰してから、夜手があいたときに、彼にかぶって欲しい帽子、喜んでくれそうなおもちゃ、今まで自分の中で眠っていたクリエイティビティが爆発するように、色々なものを作り続けました。

それらのものをブログやSNSにアップしていると、雑誌やテレビ局から声が掛かるようになり、何度か取材も受けました。

時短で勤めていた職場でも、今までのスキルや知識を活かして、皆の役に立っているように感じられ、とても充実した日々を送っていました。

が、そんな日々は長く続きませんでした。

・社会人 ワーママ期 後編

勤めていた職場の上司が変わったあたりから、任される仕事の量やタスクが重く、難しいものになってきて、職場の人間関係もうまくいかず、ミスも多発するようになってきました。(この頃のことはあまり思い出せません)査定も下り坂でした。

もうちょっと限界かもしれない、と思い始めた矢先。長女を妊娠。二度目の産休に入りました。

もう会社を辞めたい。工作だけを仕事にしてみたい。
でも、なんだか踏ん切りがつかないな…。

そんな時、友人がカウンセリングのオフィスを開業し、彼女のカウンセリングを受けてみることにしました。

大嶋信頼さんの「心にきく」という手法を取り入れたカウンセリング。私自身ではなく、私の「心」にカウンセラーが質問し、内面から聞こえてきた声を聞く、というスタイルのものでした。

心に質問したのは「どうして私は会社を辞められないのか?」というもの。
その時「肩書きが、手放せないから」と聞こえてきたのです。

驚きました。自分では、収入が減るかもしれないことが、心配だと思っていたからです。

思えば、慶應・リクルート、と名称を聞けば「おー」と言ってもらえる場所に所属していたこと、それが大事で、手放せなかったんだな…。

学童期から抱いていた、「すごいね!」と言ってもらえることがアイデンティティー。
それを、手放すのが、嫌だったのか…。

でも、それに気がついたら、
「肩書きなら、手放してもいいかも」と思えました。

そして復帰後、上司に、「実は会社を辞めたい。」であることを伝え、復帰から半年後に、退職となりました。


「ずっとやりたかったことを、やりなさい。」を読んで、自分が何を作りたいのかに気づき、ものづくりの道に踏み出せたこと。
そして「心にきく」で「肩書きを大切にしていたんだ」と気づき、会社を辞める決意ができたこと。

内面への気づきは行動につながる。
その結果、自分で自分の世界を、変えることができる。

意識の変容を学ぶきっかけは、この2つの体験に根ざしています。

つづく。

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