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何かを視界に入れない残酷さ

(2018/06/19)

この前の日記に関連する話。
今日ツイッターを見ていて、誰かがリツイートしてたものが流れてきたのだが、ちょっと驚いた。

なんで驚いたかっていうと、
それは「ほぼ日」を批判するツイートで、私は今までそんな観点は持ち合わせていなかったからである。

「ほぼ日」手帳をここ数年愛用し、
篠田CFOのファイスブックをフォローし(これは本当に興味本位)、たまにほぼ日のウェブサイトの読み物を読み、ふむふむ面白いな、と思うくらいの、熱心ではないがライトな感じのファンだったからである。

信仰などはしてないが、悪い感情は持ってなかった。

そのツイートには、
「私がほぼ日を見なくなったのもこういう違和感。比較的恵まれた人たちが、世の中のマイナスの面を「ないもの」として視界に入れないようにしながら「私たちっていい人だよね〜」って言ってるあの感じ。そういうのって一瞬いい人に見えるけど、かなり残酷だと思う」
と書かれていた。

そのツイートのコメント欄を読んで、去年樹齢150年の木をわざわざ長野かどっかから神戸に運んでクリスマスツリーにして、阪神淡路大震災のメモリアルイベントをしようとして、批判が殺到してその批判を糸井重里が「くそリプ」と評したこと等も知った。

ふむ、なるほどなあ。そうかもなあ。

ほぼ日の、世の中をちょっと面白く楽しくしよう、みたいな感じは嫌いじゃないし、
そういう面白みを追求するのが生活の楽しさだったり、生きることだったりするのだろうと思うのだけど、

多分私が最近いろんな事象にイライラしているのとちょっとそれは根元が似てて、
自分たちのポジションを反省的に見る視線がなかったり、自分が無意識で加担したり無視している世の中の負の側面っていうのは、忘れずにいないと。
何気ない平和、なんてものを享受できるのも、ある種特権なわけで。

***
高校3年生の時に、親友から教えてもらった「春になったら苺を摘みに」(梨木果歩)を今ひさしぶりに読み返している。
イギリスが舞台のエッセイなのだ。(まさか15年後、イギリスにいるとは・・イギリスというのは、ここにくるまでは本当に私にとっては御伽の国かなにか遠い世界であったのに)
あの当時は難しくて、多分よくわかっていなかったことも、今はものすごく胸に迫ってくる。この本の感想もそのうち書きたい。


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