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脱成長主義と魂の磨き方

(2017/7/19)

大学院開始まで、約2ヶ月となった。無職、専業主婦となって1年余り、ようやく忙しさが訪れる。 以前の会社には、永遠に勤めないとは思っていたが、まさか人生に、こうやって無職の期間が訪れるとは思ってもみなかった。 でも自分にとって、必要な時間だった。

(日本型)資本主義のど真ん中で総合職として働き、懐疑心を抱きながらも、段々と会社組織に飼いならされていった私が、何の生産性もない(と世の中に思われている)子ナシ専業主婦になったことで、会社組織の考えから完全に離れることができたし、自分の方向性も分かった気がする。

その方向性とは「脱成長主義」である。
株式会社にいると、会社の成長も自分の成長も、大体数字で測られる。
利益が前年度対比何パーセント増加したとか、何パーセント増稼いだか、とか。
そして、グローバル資本主義で生き残っていくには、個人も能力を磨き続け、成長し続けないといけないと言われ続ける。

でも、これ以上、何のために成長するんですか?てか、成長って必要ですか??
もし、会社も国家も成長し続けることで、グローバル資本主義の歪みも解決できるなら、成長の意味もあるかもしれないけど、成熟国家において、そんなトップダウン効果はもう期待できない。みんながそうやって競争に勝っていかないと生き残れない社会は、生きづらい。
そんな甘いこと言ってるな、世の中は弱肉強食だって言う人もいるかもしれないけど、人間は動物と違う。

私は、もともと競争とか苦手なのにも関わらず、仕事がバリバリできて、資本主義の中でたくましく生き抜くのがかっこいいと思って、なんとなくそれをずっと目指してきたけど、あー、そういう生き方、自分には全く合わないと、この一年余りで完全に気づいてしまった。

プライベートセクターからドロップアウトした私が、大学院進学した後に希望する先はソーシャルセクター(NGOや社会企業の世界)である。
日本でも近年、ソーシャルセクターの発展は目覚しい。
その中でも、コンサル等でバリバリ働いていたノウハウを生かし、NGOや社会企業を発展させている人たちもいる。

しかし、私はなんとなく、そういうエリート的ソーシャルセクタープレイヤーとも、自分は違うんじゃないかなあと思ってしまう。
なんでもよくできて勝ち続けてきたエリートな人たちが、社会をよくしてくれたら、そりゃあいい。
頭もよくて強くて、弱い人たちのこともよく理解できて、社会をよくする方法を編み出してくれる。
でも、この超不平等な世の中で、グローバル資本主義の中戦い抜かなくても、みんなが幸せに生きられる世の中を作ろうとしていく人は、そんなエリートの必要はないんじゃないかしら。。
エリートな人じゃなくても、社会をよくする仕組みが作れたら、それは希望になる気がする。

とかなんとかうにょうにょいって、脱成長主義を掲げているけれど、それと怠惰は違うわけで。
世間の成長主義に踊らされることなく、自分の魂をどうやって磨いていくのか、が私の今後の課題です。

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