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自分の枠を出る、ということ

(2017/09/25)

日本を発つ前に、「本来の柔軟さ・面白さが体から出ていない。決められた枠の中でしか生きていない。今こそ枠を出るタイミング」とある方に言われたのだけど、環境が変わって一年余り、まだまだ凝り固まった固定観念で思考しているような気がしてならない。

日本でも、自由に色々やってたつもりだったのだけど、「それは枠の中の自由」と指摘され、イギリスで「枠を超えることを意識する。3割増しに大胆に行動する」ようアドバイスされたのだけど、なかなか難しい。

そんな中、なんとなく、ああこういうことをちょっとずつやるといいのかなという出来事があった。それは、イギリス郊外バーミンガムのトルコ人の友人Sの所に招待され、2泊3日した経験である。

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そもそも私は、彼女に誘われた時に、1泊と主張した。なんてったって、他人のうちに泊まるのは疲れるからである。そして、その郊外にそんなにやることがあるとは思えない(失礼)。でも、彼女が2泊3日にしろ、それも朝早く来て夜遅く帰れと主張するので、その勢いに負けてそのように切符を手配した。正直、ちょっと憂鬱であった。しかし、彼女との濃密な時を過ごし、本当に来て良かった、また行きたいと心底思う旅となった。

Sは理系の博士課程に在学しており、泊めてもらった家はイスラム教徒の学生のための寮だった。なので、朝ごはん夕ご飯(トルコ料理)を寮のキッチンダイニングで作って食べるたびに、他の国の博士課程の学生とも話すことにもなる。印象的だったのは、ヨルダン出身のアメリカ文学専攻のAとの朝食時のことであった。何の宗教を信じてるの?と聞かれたのである。私は、「特にはないんだけど、何か超越した存在、神はいるんだろうなとは思っている。多分、仏教が一番近いんだろうけど、まだ確信は得ていない。キリスト教も少し勉強したけど、多分これは私の神じゃないと思う」と答えた。それに対するヨルダン人のAとトルコ人のSの答えは、驚いたことに、私の考えと彼らの考えは基本は同じなのだという。「神とはそういう超越した存在であって、アッラーはその預言者にすぎない。神に辿りつく道は、それこそ世界中に沢山あるのよ。仏教、キリスト教、イスラム教、他にも。それぞれその土地の文化に沿ったものがあるだけよ」という。
私はこのロンドンでキリスト教のバイブルスタディに少し通ってみて、キリスト教に他の宗教を認めない排他性を感じていたので、彼らの答えにすごく安堵した。それと同時に、こうやって生でイスラム教徒の宗教観を聞いたのは初めてだったので、ちょっとした衝撃であった。

Sと一緒にバーミンガムを散策し、シェイクスピアの生誕地にも足を運び、寝食をともにする中で、他にも様々な話を聞いた。ヒジャブのこと、ラマダンの意味、彼女の恋愛観、トルコの女友達、家族のこと等々。

日本人の友達、と話すのとは違って、英語でお互い話すことのもどかしさはあるし、文化的な共通項がないために、
「暗黙の了解」がなく、自分が彼女をどこまで理解しているのかは定かではない。
でも、文化的な共通項がないからこそ、私の思考を自由にさせてくれるのだろうな、と帰りの電車で早口でまくしたてるヨーロピアンの後ろでぼんやり座りながら思った。私がひきずっている日本的価値観とは全く違う世界で生きている人たちがどんなにこの世の中に多いことか。

初めの一歩は大層面倒臭いのだけれど、こうやって凝り固まった小さい頭の窓を少しずつ広げられたらいいなと思う。


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