わたしに楽しさをくれるもの
この文章は、#コルクラボ合宿 についてまさまさが書いた「楽しかったのはなんで?〜感情の底にある想いに気づくまで〜」から着想を得たものです。まさまさのnoteでは、コルクラボ合宿での楽しかったシーンについて、どうしてそれが楽しかったのか、自分の感情に深く潜ってその理由をさぐっています。まさまさはキャンプファイヤーが楽しかった、と言っていて、私も同じシーンが楽しかった!とtwitterでコメントしたところ、「ぜひ考えてほしい〜。まりこの楽しさの底が聞けるのを楽しみにしています☺️」とコメントをしてくれたので、考えてみようと思います。
キャンプファイヤーが終わったあと
キャンプファイヤーが終わったあと、私はなんとも言えない満足感の中にいた。すこし強引にもエンターテイメントが、ジェットコースターみたいなエンターテイメントと、読書みたいなエンターテイメントの二通りに分けられるとすれば、それはとってもいい本を読み終わったあとの満足感に似ていた。風を切るような快感や熱狂ではなく、余韻をもった体温のような満足感。
思い返せば私が今まで心の底から楽しいと感じてきた時間には、似たような満足感があったような気もしてくる。さて、ではまさまさに習ってこの楽しさの理由について深掘ってみようと思う。
キャンプファイヤーのことを思い返すと
キャンプファイヤーの火が灯るすこし前、暗闇の中である人の声を聞いた。その人は私が勝手にお兄ちゃんのように慕っている人で、いつも私の安心を満たしてくれる。そのあと、別のメンバーがやってきて、軽口をたたく。私はその軽口の意味が理解できず、ふたりを呆れさせ、つかの間3人で笑った。
そうしている間にキャンプファイヤーに火がついて、だんだんと勢いを増していく。火を囲んだ円の、対岸の人の顔が赤く映し出され、いつの間にか「もえろよもえろ」の歌が響き出した。歌詞カードをみんなが持っていないことに気がついて、小学校のときによく先生がやってくれたみたいに、休符の部分で歌詞を大きな声で読み上げてくれるメンバーがいる。それを見て、みんなが笑顔で応える。
すこし視線をずらすとこどもたちがいて、お母さんやお父さんと一緒に少し火から離れていたり、火を囲む人の円の中を歩き回ったりしているのが目に入る。少し火から離れていた親子が、すっと円の隙間に入って歌を一緒に歌をうたい始める。歩き回っていたこどもが足を止めて、他のメンバーの足元に腰を下ろしたり他のメンバーに抱っこされたりしてその場におさまった。お母さんもその横で静かに火に顔を向けていた。
ふと、対岸の方から笑い声があがって、なぜかフォークダンスがはじまっている。前の人の肩に手をおく列が少しずつ伸びてきて、私の位置まで到達した。前の人の肩に手を置こうとしたら、親子が笑顔で近づいてくるので私は自分の前に大きめに隙間をつくって、私はお母さんの肩に手を置き、こどもに「こっちにおいで」と手招きをした。そして一緒にぐるぐると踊った。
いつの間にか肩に手をおいた円がほどけて、めいめいに近くの人と話し込んでいたりして、いつの間にか、火がちいさくなっていった。
キャンプファイヤーでの印象的な出来事を思い返すと、劇的なことはなにもなかった。浮かぶのは、安心でほどよくゆるんだみんなの笑顔だった。
と、振り返ってみると、私がキャンプフィヤーを楽しいと感じたのは、私の安心が確保されていてるという条件のもとで、たくさんの笑顔に囲まれていたからかもしれない。そして私にとっての「楽しい」は、ある一瞬に宿るものではなく、ゆるやかな時間の中にあるものなのかもしれない。
私に楽しさをくれるもの
私には、輪に入れていない人、困っている人を探してしまう癖がある。きっと自分の体験上、そのつらさとか居心地の悪さをなんとかしたいと思ってしまうんだと思う。人によっては余計なお世話かもしれないけどね。(笑)
でもその癖がある以上、居心地が悪そうにしている(と私の目から見える)人がいるところで、私は安心することができない。何ができるかに関わらず、なんとなく「何かしなきゃ感」に苛まれてしまう。
だけど、キャンプファイヤーの時間はそれを心配する必要がなかった。正確にいえば、その必要がなくなった。意識していたわけではないけれど、はじめ私は円の外や動き回る人を見ていたと思う。だから、私はまさまさが書いているような、キャンプファイヤーができていく過程には正直あまり目が向いていなかったし、私の視線の先にはこどもたちがいることが多かったように思う。
そして、観察しながら思っていた。円ってすごい、と。円には階層がない。切れ目もない。だから、一度円を抜けたとしても、–––––– 例えばこどもが走り回って、例えば写真が撮りたくて –––––– 一度円を抜けたとしても、好きなときに好きな場所に戻ってくることができる。そしてもちろん、すごいのは円だけではない。隙間に入ったときに何事もなく迎え入れる左右の存在がある。かくいう私も一度写真を撮りたくて円を抜けたけれど、そのあと戻る場所がなくなって戸惑うなんてことはなかった。意外とこれってすごいことだと思っていて、例えば大人数の飲み会なんかで、仲のいい人と席が近いうちはよかったけど、途中でお手洗いに席を立ってしまったがために、その後うまい居場所を見つけられずに戸惑うことが私は少なくない。
円という立ち位置の構造と、入ってきた人を自然に円に溶け込ませるコルクラボの空気感、そして親しい仲間が近くにいるという事実が私の安心感をつくってくれた。
こうして安心して、私は楽しさに没頭できた。楽しさに没頭するとはいえ、私がしていたのはただみんなの笑顔をみていること。中心になにか面白いことが起こっているのではなく、ただ、それぞれの人が安心してそれぞれの会話の中で、そのときどきの時間の中で笑っている。その笑顔は爆笑というよりはなんというかゆるい笑顔で、私はそういう笑顔が好きなんだと思う。そんな笑顔に囲まれているということが、私にとっての「楽しい」をつくりあげてくれていたんだと思う。そして、その笑顔は、瞬間的な喜びをくれるのではなく、すこしだけ予熱をもって、私を満たしてくれる。
まだまだ自分でも理解できていない部分がたくさんあるのだろうけど、今言語化できていることはここまで。
最後に、まさまさ、素敵な問いをくれてありがとう!
最後まで読んでくれてありがとうございます。いただいたサポートは、大好きな読書と映画鑑賞にあてさせてください... ついでと思ってコメントもいただけたら、見えないだろうけど満面の笑み...喜びます...!