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黄金の刻

SEIKOの時計といえば殆どの日本人は知っていると思います。

しかし、服部金太郎を知っている人はそう多くないかと思います。

服部金太郎とは、SEIKOの創業者であり一代で築き上げた実業家でもあります。渋沢栄一などの財界人の方とも交友があった服部金太郎でしたが、なかなか文献も残っているものも少なく、あまり知られていない実業家です。

しかし、日本の時計業界を一転し、日本の高度成長期と共に企業を瞬く間に大企業へと押し上げてきた人です。


私がなぜ、服部金太郎に私が興味を持ったかというと銀座にあるSEIKOミュージアムを見学をしたからでした。

私は、なぜSEIKOがここまで大きくなったのかと、そして創業者の服部金太郎の人柄にとても共感と感動を覚えました。

ミュージアムはB1Fから5Fまでを見学できるようになっています。

階ごとにSEIKO(精工舎)が生み出してきた時計が飾られていたり、
時計の歴史などを学べるようになっています。

特に2Fの『常に時代の一歩先へ』展示では、服部金太郎の史実が描かれています。

服部金太郎は1860年10月9日、現在の銀座4丁目近くの采女町で、
古物商  「尾張屋」を営む父の喜三郎と母のはる子の長男として誕生します。

金太郎は向学心が強く、6歳から寺子屋で漢籍を学び、11歳には自ら希望し、辻粂吉が開業した洋品問屋「辻屋」に奉公に出ました。
丁稚に過ぎない身でしたが、勤勉で利発的な金太郎はとても可愛がられたようでした。

1874年、金太郎が13歳の時に将来のなすべき道をすでに考えていました。
奉公先の辻屋から近くの時計店を眺めて、
「洋品店も時計店も雨天の日は客足が少ない。そんな時でも時計店の修理は引っ切り無しにくる。時間を無駄にせずに修理で儲けて、時計を仕入れることもできる。大切な『時』を無駄に過ごさなくても良い。そうだ時計屋になろう!」

たった13歳の子どもが『時』を大事にすることと、その時間をどう商いに結び付け、将来を見据えることができるとは感慨深かったです。

そして、志が決まった頃、両親を説得し、奉公先を日本橋の亀田時計店にかえ、その2年後には上野の坂田時計店に移り、時計の修理技術を学んでいきます。
しかし、翌年その店主が事業に失敗し、店が倒産してしまいます。店を去る時に無一文になった店主に金太郎は貯金の全額の7円をこれまでに受けた恩として差し出します。


1877年(明治10年)には、「服部時計修繕所」を開業します。
この修理業で開業資金を蓄え、時計の道を志してから7年目にあたる

1881年(明治14年)21歳の時に自宅近くの采女町に「服部時計
店」を創業します。その頃の服部時計店は横浜の外国商館から輸入時計を仕入れて販売する卸売・小売業を主に行っていました。

必ず約束を守る

横浜の外国商館は新しい時計や珍しい時計を服部時計店に優先的におろしていたそうです。
その当時の日本の商いの習慣に盆暮れ2回の支払いが通例でしたが、外国との取引は1ヶ月毎の支払いが決まりでした。金太郎は必ず、支払いに遅れることなく毎月毎の支払いをきっちりしていたそうです。

そうして、外国商館から信用を得ていたと言われています。

精巧な時計を作る

1892年(明治25年)時計の輸入販売で蓄積した資金を元手に、ついに国産の時計製造に乗り出しました。

金太郎は時計の技術加工者として信頼をおいていた吉川鶴彦氏を技師長に迎え時計製造工場「精工舎」を設立します。

金太郎の人柄や強い運もあってか然るべき時にとても良いタイミングでよき人に恵まれ、その縁でまた一つ一つと雪だるま式に精工舎が大きくなっていくのがわかります。

天才技術者と呼ばれた吉川氏との出会いで、工作機の開発により25人で行っていた加工が1人でできるようになったりと驚くべきスピードで製造開発が進み、精工舎の発展に飛躍します。

懐中時計の製造を開始し、更には「将来、腕時計の時代がくる」と金太郎は未来をいち早く見据えて、1913年(大正2年)には国産はつの腕時計を発売しました。

精工舎が一段と大きくなり、成長期となったとき、創業以来の非常事態に見舞われます。それが関東大震災でした。

関東大震災による、火災はどこも甚大な被害を及ぼしました。工場も火災で全焼し、時計店や自邸も燃え、大変な被害を受けます。

しかし、不屈な金太郎は落胆はしたものの、すぐに再建やお客様のことを一番に考え、3ヶ月後には新聞広告を出しました。

「消失してしまった修理時計の代わりに、同等の新しい時計を無償でお客様にお返しします。」

なんてことでしょうか、自身の会社や邸宅など、自分の築き上げてきたものが一夜にして、消失し自分の身のことだけでも精一杯な時に、
お客様のお預かり品を無償で新品時計として提供するとは。

常に自分の身や私益よりも困っている人やお客様目線で常に考え行動できる人物とは、やはり人となりが伺えます。


実際に関東大震災で焼け焦げてしまったお客様からのお預かりした修理時計です。


精工舎の復興は順調に進み、
1932年(昭和7年)、現在の和光に服部時計店本店が完成しました。
今も、銀座のシンボルとして、時計塔は毎時を知らせるウェストミンスターの鐘と共にSEIKOの歩みや輝きを放つかの様に、音で時を知らせてくれます。

また、交友関係では近代の日本経済には欠かせない渋沢栄一とも交流があり、社会事業に対して、援助を行っていたりしたそうです。
そして、第一生命の創業者の矢野恒太とも親しく、金太郎が第一生命の設立にあたり、資金の一部を出資をしたそうです。

晩年には、私財を投じて日本の学術・文化や科学技術の発展に公益事業団体を設立し寄与したとされています。

1934年(昭和9年)、73歳でその生涯を閉じましたが、遺志を継いだご子息らが今もさらにSEIKOを大きくし、


常に時代の一歩先を行く 
Always one step ahead of the rest 

日本の大企業として、先進的な製品を今後も生み出してくれることでしょう。


金太郎の生涯を追っていく物語を描いた著者の楡周平さんの

黄金の刻 小説 服部金太郎

こちらの本も小説でありながら、史実に基づいたフィクションではあるが、
金太郎の人柄や精工舎がどのようにしてわずか一代で大きくなっていったのかが描かれています。

やはり、金太郎は若くして、志しが高く常に時代の先を読んでいた、
また、金太郎の心がけや人を大切にする心持ちからか、絶妙なタイミングで然るべき人に出会う。これも運命と呼ぶのか、金太郎の人柄が縁や運を運んできてくれるように思います。

セイコーミュージアムやこの著書を通じて一層、SEIKOの素晴らしさ、そして服部金太郎という人物の人柄に惚れてしまいました。




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