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スウェーデンの小学校の教室から学んで、公立小学校教員の私がしてきたこと。vol.2

2021年の夏休みになりました。

ゴールデンウィークにvol.1を書いてから、

夏休みに時間ができたら続きを書きたいと思っていました。

まずは「「その子が主体的に生きていくための自分への信頼を育む教育を行いたい!」という期待で満タンの私が、兎にも角にもその思いを手放さずに、日本の小学校の先生という場に着地できた経緯を、振り返ってみたいと思います。

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<目次>
1.日本の小学校の先生をやるのは大変だっ!
2. 森先生のこと
3「主語を胸に刻む」(2度目)

1、日本の小学校の先生をやるのは大変だっ!

初めて東京都の公立小学校で担任させてもらったのは、中央区立 久松小学校の3年2組41人の子どもたちでした。

専科時間の配当はなく、全教科を担当しました。まだ土曜日も毎週4時間の授業がありました。

そう、東京都の公立小学校の現場は、思っていたよりもずっと過酷でした。「昔は良かった」とおっしゃる同年代の先生方もいらっしゃるのですが、その感じ方には個人差、地域差があると私は思います。

少なくとも、私が平成元年度から勤めた学校はかなり厳しい場所でした。月曜日の全校朝会のたびに、担当の高学年児童が屋上で上げてくれる国旗に合図とともに注目しました。子どもたちの標準服のブレザーのボタンが止まっているか、ブラウスの襟が中に入っていないか、子どもたちが帰った後名札かけに名札が全部揃っているか、そんなことを担任がしっかり見届けていることを日々要求されました。

毎日のように夜遅くまで教室で終わらない仕事をしていました。午後9時を回ると校内放送が流れます。「校内にいるお手すきの先生方、職員室にお集まりください。」・・。午後9時に校内にいるのにお手すきの人がいるわけがないのですが、行かないわけにはいきませんでした。印刷されたプリントを人海戦術で取ってまとめる仕事だったり、研究発表向けのOHPの型抜き作業だったり、教頭先生がラーメンとってくれたから食べましょう(もれなくビールのお酌をする仕事付き)だったり。そんな時代でした。

でも、きっとこんな話は、日本中のたくさんの地域で、たくさんの先生方が抱えているものなのだと思います。(だから、今、教員という仕事から人が離れていってしまっているのだと。)

私は、41人の子どもたちと空き時間のない日常を過ごす中で「スウェーデンの教室で学んだことを生かす」という、自分のライフワークを実現していくことの難儀さに気づいて呆然としていました。

きっと、読んでくださっている方の中にも、「ほぼ無理ゲー」という状況を体験されている方もいると思うのです。私はそうでした。泣きました。怒りました。凹みました。何かを工夫する余地なんてどこにあるの?子どもたちの主体性を育む余地がどこにあるの?・・。ごめんね、ごめんね・・。

相方が「森先生」じゃなかったら、多分もたなかったのではないかと思います。

2、「森先生」のこと

この学年は2クラスで、1組担任の森先生は40代に入ったばかりの男性。2人目のお子さんが生まれたところでした。教務主任、研究推進委員(文部省の研究指定を受け、発表の年でした。)、学年主任。そして私のために初任者研修担当(この年に始まった未知の仕事でした・・)を引き受けてくださいました。

あの一年の森先生の背負っていた仕事の多さと大きさ。どれほどの重圧だったかと思います。それでも、一度足りとも辛い顔を見せずに学年81人の子どもたちと、スウェーデンから持ち帰った夢をがっちり抱えた、小学校教員の仕事を何も分かっていない、なんならお荷物でしかない私を守り抜いてくださったことを思うたび、胸がいっぱいになります。

1日を無事に終えるのが精一杯。朝、電車の中で寝てしまって一駅乗り越し。いっそこのままずっと先まで行ってしまおうか・・と一瞬迷う。そんな日々の中でも、いや、そんな凹みまくりの日々だったからこそ、森先生が見せてくださった子どもたちとの対話の温かさや、仕事への誠実さは、私の心の深いところにグイグイと作用しました。

森先生が子どもたちに語りかける言葉を教室の後ろで一緒に聞きながら、一番泣いたのは私かもしれません。毎日自転車操業で、自分のやりたいことなんてちっともできない。(やる力もない。)でも、目の前で見せてもらっている光景はなんだろう。森先生の言葉によって、存在によって、子どもたちの心に火が灯っていくのが見える。

同じなのだ、と思いました。スウェーデンのあの穏やかだけれどくっきりとした芯のある先生たちと、森先生が子どもたちに届けているメッセージが。

「君は世界でただ1人の大切な存在なんだよ。」

「整理してみよう。今起きたことはこういうことかな。では、それについて君はどう思うの?」

言葉としては、その時その時の状況に応じてもっと具体的にわかりやすく話してくださっていたけれど、常にその奥にあるメッセージは、子どもたち一人ひとりの存在の全肯定と、子どもたちの思いと言葉の受容でした。

だから、「間違えた!」と思う場面でほど、子どもたちはシンと静まり返って、でもなんだか安心したように森先生の言葉を受け取っていました。そのメッセージを受けて引き出されていく自分の気持ちが彼らはきっと信頼できた。森先生は、「自分が好きになれる自分」を、引き出してくれる先生だったのだと思います。

3、「主語」を胸に刻む(2度目)

同じように丁寧に話してみても、私の言葉が彼らに響かないのは、私が私の思いを伝えようとばかりしているからなのだと、エゴの強い私にも分かってきました。何度も反省しては、それでもうまくできない自分にもがきました。もがきながら、ゆっくり、ゆっくりと、染み込ませていくしかなかったのです。

主語は私じゃないんだ、と。

言葉にして考えたことはおそらくなかったけれど、私の不満や怒りの源にあったのは、「私が・・・する。」という考え方の呪縛でした。「その子が主体的に生きていくための自分への信頼を育む教育をする」⏩「そのために大切なことを私が考え、私が決め、私がやる。」

森先生が見せてくださったことは、その主語の鮮やかな反転でした。

思えば、スウェーデンの教室で学んだことの最も根源にあることはーーー「主体は子どもたちである」ことではなかったか。当然のように、知っていたのではなかったのか。

教える内容でもない、方法でもない、学級規模や持ち時間数でもない、この教師としての「観」の部分こそが全てを司る根っこであり、それは国を超えて、言葉を超えて、すでに共有されていたのです。それではない「観」が、薄暗い灰色の膜のように日本の学校教育全体を覆っている中で、ずっと、脈々と、それを実現しようと力を振り絞っている先生たちがいる。ならばその列に加わって、私は私の力を振り絞ろう。

もがきながら、ゆっくりゆっくりと、私はもう一度、スウェーデンの教室で学んだことを胸に刻みました。今度は日本の小学校の先生として。東京の教室で。「主体は子どもたちである」と。これが、私の着地でした。

スタートの年に森先生と出会えたことと同じように、この後私は、流れに飲まれてこの「観」を外しそうになる度に、そのことに気づかせてくれる同僚に出会えました。

同僚たちの教室の、「自分で決める」意欲に溢れた子どもたちの姿に触発されながら、えっちらおっちら歩いた日々のことを、次からようやく書きたいと思います。

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