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013 アルジャーノンに花束を



この記事は、2017年1月に書いたものをベースにしている。

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今まで、勉強なんかしない方が良かったのではないか、と思う瞬間が何度かあった。知識をつけて、考えを巡らすほど、逆にわからないことが増えて、自分のちっぽけさや世の中の理不尽に気付き、哀しく、虚しい気持ちになって、生きるのが不自由になる気がするのはなぜだろう、と。

しかし、2016年が終わる頃、1冊の小説と出会い、一つの答えと思えることを見つけられた。


それが、この記事のタイトル、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』。


この本は、1950年代のアメリカニューヨークを舞台に、32歳でありながら知的障害のため6歳児程度の知能指数しかない主人公チャーリーが、ある手術によって天才となるストーリーを繊細に描いている。

小説全体は”経過報告書”という形でチャーリーの一人称で記されていて、知的水準に伴いその文体が変化するように描かれているあたりが、感情移入せずにはいられなかったのを覚えている。

全体を通して、ダニエル・キイスは、”人間にとって大切なものは何か、知能指数が高いことは幸せなのか?”というテーマに対する答えをこの小説で展開していると思っている。


この本を読んで、知識をつけるということがどういうことなのか、知能を高めるということがどういうことなのか、わかった気がした。


今まで自分のために生きてきたと思う。悩むのも迷うのも、それ自体結局は自分のためだった。


でも、自分のために、だけでは虚しいのだ。誰かを思いやる心、誰かの目線に立つ想像力、共感しようと試みる気持ちに裏打ちされない知能は虚しい、と。


真に持つべきものは、「アルジャーノンに花束を手向けてほしい」と願うような心なのだと。


いくら頭が良くても、肩書きや地位で張り合い、人を見下すなんてことは、愚かで醜いという逆説なのだ。



そういったことに気づかせてもらったのが、この小説だった。



社会人になり、できることが増えていく。知識も増えた。効率化と経済合理性を優先し、感情を削ることもある。


そんな日々の中で、この小説のことを思い出したい。この小説に出会った19歳の自分を思い出したい。


アルジャーノンに花束を手向けてほしいと願うチャーリーの心を、思い出そう。



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