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アフリカ最大のスラム・キベラを訪問したら、400万年の人類史を歩いた気分になった

日本人にとっては馴染みがないかもしれないけれど、ケニアの首都・ナイロビはとても発展していて、ショッピングモールや高層マンションがゴンゴン街中に立ち並んでいる。私も含めて、駐在などでナイロビに住む外国人は、温水プールやジム、24時間体制のセキュリティがつくモダンなマンションに住むことが一般的だ。Uberや車で職場やレストランに移動するから、ストリートを歩くことはほぼないし、勤め先によっては通りを歩くこと自体治安の関係で禁止されていることも多い。だから、見たくないものは見なくても良いのがナイロビ だし、車の窓から時たま目に入るスラムも、うっかりすると現実とは遠い存在に思えてしまう。

ナイロビには、街中に複数のポケットがあるかのように、大小規模さまざまなスラムがいくつも存在する。そして観察していると、大抵、外国人向けの高級マンションからそこまで遠くない場所にあることが多いのが面白い。富裕層家庭での家事のお手伝いやセキュリティガードとして働く、主にナイロビに出稼ぎに来ているケニア人が、こうしたスラムに住むことが多いのだそうだ。だから、勤め先である富裕層向けのマンションから、そこまで遠くない徒歩圏内にこうした集落が出来上がっていく。

都市をリサーチしている身としてはぜひもっと知りたい。でも、外国人一人でのそのそ彼らの居住区に入り込んでいくわけにもいかない。

だから、ケニア歴35年以上の日本人・早川千晶さんが、ナイロビ最大級のスラム・キベラで2日間の研修・ツアーを企画していることを聞いたときは嬉しかった。世界放浪の末にケニアに定住した彼女は、孤児・ストリートチルドレン・貧困児童のための駆け込み寺・マゴソスクール、そして海岸地方ミリティーニ村にジュンバ・ラ・ワトト(子どもの家)を運営している。

早川さんが企画するのは、キベラスラムと、マゴソスクールの取り組みを知るためのツアーだ。1日目に歴史的背景のレクチャー、2日目に実際にキベラスラムを歩き、マゴソスクールを訪問する。ここで学んだことの全てを書き切ることはできないけれど、この2日間の学びの断片を、少しでも書き残しておこうと思う。不思議なことに、このたった2日間で、400万年分の人類史を歩いた気分になった。

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植民地主義と都市、セグリゲーション

キベラを理解するには、ナイロビを、ケニアを、アフリカを、世界を知る必要がある。早川さんの1日目のレクチャーの教訓は、まさにそれに尽きると思った。アフリカのさまざまな部族とその移動の歴史、地域ごとに異なる気候風土と生活様式、ポルトガル人によるアフリカ沿岸周航、インド洋文化、植民地支配と交易の歴史、1884年のベルリン会議とアフリカの分割、都市の誕生、近代都市のセグリゲーション、独立、自由を求めた闘争まで。2時間のレクチャーで、歴史を一気に駆け抜ける。

個人的に印象的だったのは、首都・ナイロビの起源だ。ナイロビは、マサイ語で「冷たい水」を意味する。ウゴングヒルからナイロビ川が流れており、その川の水が冷たいことから、この名前がついた。マサイ族の人々は、水場を占領するようなことはしない。水は、全ての生物に開かれているべき存在だからだ。しかし、マラリアもなく、冷涼な標高1500~2500mの立地条件がイギリスに気に入られ、植民地主義の拠点として、首都・ナイロビが誕生。その後、鉄道が通り、都市計画が始まる。

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White highlands (Meier zu Selhausen, Frederick, & de Haas, 2016)

植民地主義と都市の発展、という文脈でいくと、1901年のケニアの地図が面白い。「White Highlands」とマークされている土地は、イギリス植民地下における白人占有農牧地の俗称だ。 肥沃な土地は全て、その当時多かった没落貴族を中心に白人の入植者によって次々と占拠されていった。映画『Out of Africa』で描かれているのはまさにこの時代のケニアの姿だ。白人の入植には、道路が、街が、水が必要だ。これらが全て、黒人の労働でまかなわれた。また、3万人のインド人が連れてこられ、人力で作られた鉄道「Colonial Railroad」の話も壮絶だった。

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(上図)1909年のナイロビ における人種隔離が分かる地図。White L. W. T., L. Silberman, and P. R. Anderson. 1948. Nairobi: Master Plan for a Colonial Capital. A Report Prepared for the Municipality of Nairobi. HMSO, London)

1910〜1920年頃にイギリスによる本格的なナイロビ の都市計画。人種隔離政策のもと、広大な白人居住区、アジア人居住区に対し、大量の黒人労働者が一部の黒人居住区に押し込められ、自由な行動を禁止された。特別な通行証を持っていなかったら、この居住区外に出ることは許されなかったという。

キベラを歩く

さて、本題はキベラスラムについて。

キベラスラムの「キベラ」は、ヌビア語でジャングル、という意味らしい。19世紀末にスーダン南部からイギリスが強制連行してきたヌビア人傭兵のための軍用居留地だった場所で、人種隔離時代にも、多くのケニア人がここキベラに暮らしていた。強制退去に抗うために数で抵抗し、政府への抵抗のシンボルのような場所となった。ここから、続く土地解放運動への流れを紐解くと面白い。1940年代以降も不法居住者が集まる場所となり、今では田舎からの出稼ぎ労働者を中心にスラム街となった。

ツアーの当日は、近隣のショッピングセンターで待ち合わせをしてから、タクシーを乗り合わせてキベラに向かう。道路を一本越えると、一気に風景が変わった。

舗装されていない狭い通路に、大量のゴミと汚水が流れている。今にも崩れそうな小さな建物がびっしりと通りを囲み、歩いていると、なんとも言えない異臭がする。水道管は剥き出して、電気もワイヤーがあちこちに剥き出しになっている。家の作りは、トタンが中心だ。すぐ隣にあるゴルフクラブから出ている下水で、洗い物をしている人たちもいた。

もちろん、お店も警察署も公園もしっかりあって、立派な都市機能を持つ。インフラが整っていないなかでの人々の創意工夫と力強さも、早川さんはしっかり教えてくれた。

マゴソ・スクールの取り組み

マゴソスクールに到着したのは、ちょうどお昼頃。

カラフルな2階建ての校舎。丁寧に掃かれた土の校庭。綺麗な水が組める井戸。キッチンからは、給食の良い匂いがする。ほっとする空間だ。

マゴソスクールには、孤児、元ストリートチルドレン、虐待を受けた子どもたち、労働させられていた子どもたちなどが、駆け込み寺のようにやってくるという。子どもたちだけではなく、大人も、若者たちも、困った状況にある人たちがここで共に生きていく場所になったマゴソスクールで家族のように生活をしている人は、子どもと大人を合わせて常時約30名ほど。他、幼稚園から小学8年生までの授業に通う生徒数は500名ほど。スラムの貧困者のための職業訓練所(洋裁と大工)としても活用されている。

毎日の朝昼の給食、高校生のための奨学金制度などを運営しているのがすごい。

私自身、このマゴソスクールの卒業生で、日本人のサポートを受けて大学に進学している男の子と話したことがある。しっかりと、控えめだけれど自信に満ちた喋り方に、彼の毎日の努力に耳を傾けながら、思わず背筋が伸びた。教育の力と、チャンスを掴む力、そしてそれを無駄にしない努力。ボヤッとしてしまいそうになるたび、彼の顔を思い出すようにしている。

アフリカの都市を読み解くことは、400万年の人類史と向き合うこと

最後に。

今回の体験を通して感じたことの一つは、”ケニア人”というのはなんとも乱暴なくくりだということだ。ケニアには、Cushitic, Nilotic, Bantuという大きく3つの民族がいる。それぞれに細かい分類があって、全部で42の民族がいると言われている。おもな民族は、キクユ族22%、ルヒヤ族14%、ルオ族13%、カレンジン族12%、カンバ族11%、キシイ族6%、メルー6%族などだ。

ケニアといえばマサイ族が有名だが、マサイはNiloticグループの民族の一つにすぎない。Niloticはナイル川沿いに移動してきた民族で牧畜を主とする、移動遊牧民が紀元で、「自然は変化するもの。それに合わせて、移動すること」が普通だった。Bantu族は農耕が中心で、現在のカメルーンなど、中央アフリカからグループだという。

この3つの民族は、この土地に行き着くまでの移動経路が異なるので、言葉や文化の違いはもちろん、骨格や身体つきも違う。これらの民族は当然、ケニアだけではなく他のアフリカの国々にも散らばっている。地理的に離れている国の文化でも、民族が同じであれば通じ合えることも多いんだそうだ。

現代の彼らの文化や生活様式、そしてその多様性を観察しながら、なぜ今のナイロビが、ケニアが、現在の姿になったのか、想いを馳せてみる。そこから、アフリカの自然環境や、人類の発展と移動の歴史が見えてくる。都市を考えることは、歴史を紐解くことでもあると改めて感じた。




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