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映画『ドライブ・マイ・カー』、つづき。

2022.4.5

映画『ドライブ・マイ・カー』について、
4/3の日記からの続き。

《非言語コミュニケーション》というものに興味があり、
だからヴァイオリンを弾いていると言っても過言ではない。

この8年間くらい、
毎年毎年、その興味は少し広がっては、また迷い
考えて感じては自分でまとめ、それをアウトプットし。
またそこからフィードバックを得て、考える。

いろいろな出会いと感覚を運んでくれる。

言語に頼らないコミュニケーションというものは

物事を二元化しない。

言った、言わない
正解、間違い。

多層を生み出し、第三の答えを提示できる。

『ドライブ・マイ・カー』を観に行った4/3の日記でも
書いたけれど

この映画はそれがとてもわかりやすく、思いやりを持って
何より時間を使って(ここ重要)表現されていて
とても感動しました。

原作は、20代のとき、
それから最初のコロナ禍自粛のとき
たまたま本棚からひっぱりだして、と、
年月を経て2回読んでいて、

同じ短編集の別の作品「シェエラザード」の空き巣の話が
原作には名前すら出てこない奥さんの語りになっているのも、
あの短編集の根底に流れる音楽的なもの(喪失と再生)を
感じるということがしやすい。

僅か60ページのお話を少しずつAnother storyを交えながら
膨らましてある。
損なうリスクと丁寧に向き合ったら
60ページが3時間になちゃったという映画だった。

「わかりやすく」することには、必ず『損なうリスク』が伴う。

それを「しょうがないよね」とやることはできる。

できること、できないこと、それの言い訳でなく、
求められることに応えるわけでなく、

損なわないためにはどうするか。

ちゃんと『時間をかけること』だ。

《赤いハリネズミの会》でも、
現代音楽を取り上げるときに、出来るだけ何かしらの
視点を提供するようにしている。
手を動かして身体から感じていただいたり、
ほかの作品とのつながりで聴いていただいたり。

でも、それは言語化してしまうと、
何か大切なものを損なってしまうから、
あまり、言語化しないようにしていたのだけど、
「それって不親切だなぁ」と思うようになり、
前回12月の公演は初めて言葉で説明してみた(ボールも投げたけど)

でも、それには、こちらの準備にものすごい労力と、
時間、なにより、自分に落とし込むインプットする時間がかかる。

時間をかけ、ちゃん自分で感じる
それを、丁寧に、誤解や固定をおそれず、言語化する。

そこから伝わり、生まれるものは大きい。
それには、もっと私はきちんと時間をかけねばならない。

話が自分のことに外れてしまいましたが、

お金を使わなくても、時間をきちんと使って向き合うこと。

劇中で家福が言うセリフ

「上手くやる必要はないんだ」

それが良く伝わる映画で、とてもわかりやすかった。

それは何に対しても言えることだと思う。

家族にお料理をつくること。
おうちをお掃除すること。
書類を渡すこと。
車を運転すること。

人が関わっているかぎり、
なんでも、そうだと思う。

最後に、

手話はやっぱりすごい文化だ!!!!!
チェーホフだって、みんなに伝わった
言葉以上のものが。ちゃんと。

*****

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