二重構造人間

わたしの人格が変わっちゃった感じです。

「人格が変わっちゃった」とか、簡単に言う言葉じゃないと思うんですが、
エックハルト・トールの『ニューアース』がその引き金を引いてしまいました。
というか、エックハルトの言っていることがそのまままるでわたし。

わたしは子どもの時から「世界がいながらにして二重になっている」という感覚の持ち主だったんですよ。
つまり、目の前の現実と同時並行して、全く違う、もう一つの世界が透け透けになって見えている。
その感覚が強まる時は、前兆があったり、
突然の時もある。

一番最初に起きたのは小学5年の時。
その時もやっぱり人格が変わりました。
けれど子どもの場合は性格がどんどん変化していくため、そこまで
大ごとには考えられず、大人もわたしの変化に気が付かなかった。

そして、
1の世界と2の世界のバランスが、10代の時はどうにも悪くなり、
高校時代は特にひどかったので、
心療内科に行ったら「解離性障害」と言われたんですね。
なんだそうか、世界が二重に見えるのは病気であり、障害だったのか。
なんか抗不安剤のようなものを処方されて、それで治療しなくちゃいけないものだったのか。

しかし、しかしだ。
歴史上、どうにも、わたしと同じようなことを言っている人が、たまーにいるじゃないか。
文学作品にも宗教にも、それはあるじゃないか。

『精霊の守り人』に出てくる二重の世界「なゆ」と「さゆぐ」。
和田重正の『もう一つの人間観』では和田重正が現実の世界で悩んているときに、
「個体への執着から解放された」体験が書かれている。

何なら、大袈裟なことを言えば、
ブッダのニルヴァーナも、
キリスト教の「神」も、
エンデの『モモ』が出会うマイスターホラの時間の花のことも、
そうじゃないか。

普通誰しも、頭の中で思考を繰り広げているから、その思考の世界こそが世界であり、
そのほかに世界はないと思っている。
しかしながら、わたしが感じているのは思考のない「今」と、思考だけの「今もどき」。
「今」と「今もどき」を同時に感じている。
なぜ感じるのかわからないけど、とにかく感じるのだ。

文学的に説明すると、
「今もどき」というのは至って普通の世界であり、1、2、3人称で説明できる世界。
ところが「今」には人称がつけられない。0人称ともいうべき世界が広がっている。
(以下、ゼロ人称という名前でこの世界を呼ぶことにする)

まさか、それが他の人にはない体験だというのだろうか???
これが本当に病気で、治さなくてはいけないものなのだろうか?
おかしいと思う。もっと自分でこの問題は詰めなくてはいけない。

ゼロ人称については、要所要所で、その時そばにいた友人に話したりもしていた。
はっきり言って理解してもらえたことは皆無。

どころか、
「じゃあこの石買うといいよ」と真光教に言われ、
「一日三時間、南妙法蓮華経唱えなきゃダメだよ」と日蓮宗に言われ、
「クンダリーニを覚醒しましょう!!」とオウム真理教に言われ、
「最後に勝てばいいんだよ!!!」と創価学会に言われてしまった。

ヨガインストラクターだったこともあるので、
2000年代に、スリランカから黒船のごとく日本にやってきたテーラワーダ協会の長老たちに出会って、
話を伺ったこともある。
テーラワーダについては、上記の宗教と全然違う雰囲気があったので、話を聞いてみようという気になったのだ。

そしてゼロ人称は仏教のセンスと良く通じていることもわかった。
当たり前だが、テーラワーダは葬式仏教としての仏教ではない。
ニルヴァーナや悟りについて真剣に考える仏教と、ゼロ人称は親和性がある。

20代では、そこまで解明することができた。
10代で病気と言われ、20代でその病気の本質に迫ろうとしたわけだ。

で、30代。

以前にもまして強い乖離を体験することが増えた。
本当に増えた。普段の家事の合間にも、どうにも乖離する。
犬の散歩をしていたとして、犬の散歩をしている自分の後ろ姿などを確認できてしまう。

あーあ、
やっぱり病気なのかねえ、、

なんて思っているときにエックハルトの『ニューアース』を読んだ。
これだ、間違いない。間違いようがない。
この感覚だ。全部こうでしかない。

しかしなぜ???

エックハルトはドイツ出身で、カナダ在住のお爺さんだ。
アジア人でもないし仏教徒でもない。
それなのにどうしてこうも「わたし」なんだろう??
エックハルトの世界を真剣に考えているときに、身内経由で邂逅したのが、
山下良道先生だった。

エックハルトは素晴らしい方だけれど、はるか遠くにいる。
日本から出ないわたしには、会って話せる存在ではない。

ところがエックハルトの提唱する世界について、なんと日本で(しかも神奈川県で)、より踏み込んで、
実践している人がいたのである。
ちゃんと存じあげるまで、わたしは山下先生が色々な著作があることも知らなかった。
焦って拝読した。
『青空としてのわたし』。これもまさに。
ニューアース、青空、ゼロ人称。
全て繋がったというわけだ。
解離性障害がいじゃない。病気ではない。めちゃくちゃ重大なテーマだ。
むしろ宗教では何千年と同じことを繰り返し伝えられていることだった。
ただ、乖離が起きない人が圧倒的多数であるため、青空やゼロ人称のことを、
やれ「悟り」と祭り上げてしまって、そこに利権を見つけて奪い合う。
その途端に宗教と全く関係ない、力の奪い合いが発生する。
宗教はいつの時代もその繰り返しであり、呆れた日本人はいう。

「宗教って争いのもとなんだね、自分は無宗教でいいや」

そういう感想になるもの、もっともだ。宗教の本質がまるで見えな状態で、宗教を評価するとそうなる。

自分がそうなりたくてそうなったわけでもないのに、
たまたまわたしはこれまでの人生を
宗教の本質とともに生きてきたことになるわけだ。それが最近になってようやくわかったことで、
人格が変わっちゃったと言っているのだ。

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