![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/130002514/rectangle_large_type_2_134ed0d3120701357a6f6bacf607bf35.png?width=1200)
プロローグ「病気と平気の線引きはどこ?」
このタイトルを見ただけで、「ほんっと、そう!」って思った。
「病理の結果、乳がんでした」
って言われたときから、いきなり病気。しかも、死んじゃうかもしれないって思っちゃう病気。どっこも痛くもないし、不快なところもないのに。さっきまでは、このあと何食べよう、明日は何しよう、長い休みが来たらどこ行こう、とか考えられていたのに。
がんが見つかったら、そういう当たり前の「これから」のことは全部いったん白紙。ちょっとひどくない?そんなのって。
がんこそは、「病気だけれど平気に見える」の最たる例だ。そして、がんは「病名のついた日から病人になってしまう」病気の代表格である。
その通り。
体の実感が伴わないまま、心だけで衝撃を受け止めるしかない。もちろん、実際にどこか不調を感じていたら、それはそれでしんどいけれど、体と心の同期ができていないのは、それはそれでしんどかった。
本人は、おとといも昨日も、痛くもかゆくもなかった。つまり平気だった。でも病院に来たらそこではじめて、病気であると診断された。昨日と同じように、まだ平気なのに、「今日から病気になった」。
だから心が追いつかない。
そもそも「平気」とはなんだろう。
病院にかからなくてもいい、放っておいていい、何もしなくてもあとで後悔しない。
このあたりが、「平気」の意味するところだと思う。
がんが見つかったら、「放っておいていい」のかどうかは、お医者さんの医学的判断、「何もしなくてもあとで後悔しない」かどうかは、患者本人の判断かな。
患者本人の判断とは言っても、実際には患者オンリーの考えや気持ちだけで決めるのは難しい。このあとの1章で「医療シアター」という言葉が出てくるように、後悔するかどうかは、患者自身の気持ちだけじゃなく、家族など周りの「シアター参加者」との関係性にも影響されると思う。
わたしがもし、家族と疎遠だったら、両親に愛されていなかったのなら、今まで実際に受けた治療すべてを、受けようと思ったかどうかは、正直言ってわからない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?