年を取るということ(前編)

来月の18日に26歳を迎える。お祝いごとだといっても、はっきり言ってそろそろ誕生日を迎えて年を取るのがイヤになってきた。それに、数字だけみれば立派なアラサーだが、気持ちは永遠に小学生女児なので自分の年齢には違和感しかない。

老いの実感

「老い」というものを我がこととして最初に意識したのは、20歳が近づいてからだと思う。そして、実際に「年を取った実感」が湧いたのは、25歳を過ぎてからだ。

わかりやすいのは顔の変化だ。まだ「しわ」とまではいかないが、筋肉の一定の動きの跡を、肌が記憶し始めた。そんなもの記憶しないでくれーーその一心で最近、寝る前にフェイスパックをするようになった。

それから、何かを思い出そうとするときに、思考が「回り道」をするようになった。例えばこのあいだは、「レイ・ハラカミ」という人名を思い出そうとして最初に「カヒミ・カリィ」という人名を思い出してしまい、正解を思い出すのに余計な時間がかかった。

他にも、上手く言えないが、体内の中の何かが変わった気がする。24歳と25歳の間に、明らかに今まで感じなかった溝がある。

若さか、命か

「私には何もないのに、若さまでも失わなければいけないのですか。」

時折、いるかもわからぬ神ーーあるいはそれに似た、自分やこの世の一切のものが到底逆らえない何者かーーに、そう問うてみたくなる。

極端、かつ決して勧められないが、絶対に若さを失わないで済む方法として、「命を失う」というものがある。命を落とした「享年」で、その人の老いは止まる。若さか命か、どちらかを失えばどちらかが得られるのだ。

ちなみにこの選択について、漫画『デスノート』では、メインキャラクターの1人であるアイドルの少女が、老いて醜くなるより若くてきれいなうちに死んだ方が幸せだと持論を語っている。私はアイドルになれるほどの美貌はないが、それでもその気持ちはよくわかる。

意外と絶望ばかりではないのかもしれない

嫌がりつつも実は、私は老いることに絶望ばかりしているわけではない。

「年を取るのも、意外と悪くないかもしれない。」そう思わせてくれる人々や、言葉の存在があるからだ。

次の記事で、いくつか例を挙げながら語っていきたい。

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