見出し画像

FAZIOLI ファツィオリ


FAZIOLI Japan

なんというか根が凝り性というか、ものの作られた経緯とか、哲学とか、素材とか、構造とか、歴史とか、人の思いとかが私にとってはとても大事であるという性格のために、

スタインウェイ、ベヒシュタイン、ベーゼンドルファーと、それぞれの企業のショールームで試弾させていただいた先に、「次はファツィオリを弾いてみたい」と思ったのです。

ファツィオリで弾かれた音楽を実際に聴いたのは2回。ともにイタリア文化会館のアニェッリホールで、1回目に弾いた方の印象と2回目に弾いた方の印象がまるで違って、「どういうことなんだろう?」と気になってたのです。でもその時はなんだかロゴがサンセリフ体で見た目も強そうなので、きっと難しい楽器に相違ない。と思っていました。

ファツィオリはそもそも謎が多いんです。全然情報がない。価格さえわからない。だから、ホームページから試弾のお問い合わせをしてみました。
上記の理由をそのまま書いて。
そうしたら、社長から即メールが返ってきました。気さく。

こうしてありがたいことにショールームで試弾させていただくことになりました。

行ってみたら場所が、一瞬わかりにくいところにあるんです。
ホームページの言葉での経路説明は私にとっては事態をさらに複雑にしました。
それでもいきついた先の倉庫のような空間に、胸は高鳴ります。
(おまわりさんありがとう!)

私はきらびやかなショールームではなんだか音がよくわからなくなっちゃうんです。
本当に、倉庫みたいなところでただピアノだけいっぱいあるってかんじがいい。
ベヒシュタインも、日比谷より千歳烏山の方がずっと好きです。

The best for me

やっと着いたー!と思ったら、出迎えてくれたのは社長のAlec Weil氏。
日本語がお上手。でも、シカゴ出身で、ドイツ・イギリスにも住まわれたことがあり、ドイツ語も話せるとのこと。
きっと密かにラテン語とかも話せるのではないか?そうだとしてもまったく不思議ではないと思ってしまいます。

スタインウェイ・ジャパン立ち上げの際から日本でご活躍のち、ファツィオリに出会ってご退社、ファツィオリ・ジャパンを立ち上げられたとのこと。
お話の端々から、人生が賭けられているのが感じられました。
どれだけ自分を信じられるかということの大切さを、教えられた気がしたんです。

まず、Alecさんが278cmのフルコンを弾いてくれました。
welcome?
この時に、私はすごくピアノの中をのぞきこんでしまってその反応に自分でも驚いたことは、2回目にそうだった時に気づきました。

なんかどんどん近づきたくなってしまう。
「ふしぎの国のアリスみたいになれたらいいのにね。」と娘に言われて、まさにそのとおりだね。と思いました。

ピアノの内部に見える木が、私にとってはとても重要なのですが、これがポプラの木で、黒に映えて光るんです。
それで、継ぎ目の金属も造形が美しくて金加工がしてあってデザインとして完成されている。
それがなんともいえなくて、音とあわさるとどうしても不思議な魔力があって近づきたくなっちゃうのかもしれない。し、
響板や蓋の構造のせいなのかもしれない。(いろいろ複雑な構造らしい)

それで私も弾かせてもらった時に、「あぁこれがベストだ。」と感じました。ベーゼンドルファーで耽溺し、ベヒシュタインで未来を見たけれど、とにかく、FAZIOLIは自分にとってのベストだと。
何か造形や哲学や、すべてあわせたトータルなものでそう感じたんです。

かといって買えるわけではないのですが。

Where to go

縁があるといえばうちには3ヶ月前にPLEYELのピアノがきました。
初めての楽器購入で、それはそれですごく大変だったけれど、大変なのはむしろピアノが来てからでした。
弾いてるうちに何か自分が中から変わっていくようなこわさとか戸惑いとかがでてきてしまったんです。

「いい楽器は教えてくれるから」とAlecさんがおっしゃり、

「でも、たとえばPleyel が教えてくれるものと、Bösendorferが教えてくれるものと、Fazioliが教えてくれるものは絶対に違うはずで、だとしたら導かれる先が角度を伴って違うっていうことになっちゃわないでしょうか? 私はそれがとてもこわいんです。」と伺ってみると、
「それはどうだろう」という顔をされました。

たぶん、答えはNOなのです。

もし機械だったら。
機械が弾くのだったら、きっとそれはYESであるはず。
だけれども、人間が弾くのだから、必ず弾く人間というのがそこにあるのだから、その人間が生来持っているものは音の核として必ずその響きに反映されているはずで、それはどのメーカーだったとしてもその真実を知る楽器であればその人間の特質をとらえて音として反映させるはずである、と。

「たとえば、僕は5歳のころから弾いているけれど、自分の音楽が変わったとは思わない」
違う文脈で彼はこう言いました。

とにかく、今をときめくショパンコンク―ルで入賞したような若い人たちがこぞって「彼も、彼も、FAZIOLI好きで弾いてるよ。」と。
往年の巨匠ともお友達。皆FAZIOLI好きらしい。
だからといって所有しているわけではないんです。

去年オペラシティにコンサートを聴きにいったあの人の名も。
彼は私は非常に精密な音楽だと感じたので、FAZIOLI贔屓はなんというか意外だったのです。
それで、そう素直に述べてみると、
「彼はこの楽器が好きだ。素晴らしくよく鳴らしたよ。17歳の時から知ってるけど、変わってないね。彼は彼だよ。」

FAZIOLIでなければならないものがあるというよりも寧ろ、彼らが表現したいものが表現できる喜びがあるから、弾いたり好きだったりするんでしょうね。

教えてくれるというのはつまり、楽器と自分とのいい折り合いということで、よくわからないとか、メーカーでなんか変わっちゃう気がするというのは結局は、まだ自分自身がよくわかっていないということなのだなと思いました。

これにてピアノ試弾の旅は無事に終盤を迎えられることとなった気がします。

FAZIOLIはフィナーレにふさわしかった。
やっぱり私にとってイタリアは、何か自分の一部であるように感じます。

The part of me

もうひとつ、私が伺ったのは、(実際にはもっとたくさん質問ばかりしていたと思うのだけど)

「このピアノがいいとか好きとか、でもそれって人によって違うのはどうしてなんでしょう。相性なのかな。自分にとってということを大事にすればいいんでしょうか?」

というようなことだったと思う。たぶん。
でもそれはいつも私が不思議に思っていることで、切々といろんな形で訪ねていたと思う。

Alecさんは非常に誠実で、きちんと感情をそのまま表現してくださるからいろいろ質問してもその都度応えてくださる方で、でもその際は際めてpersonalに、

「私はFazioliに出会ったときに、以前から知っていたのではなかったはずなのに、ずっと前から探していた、これはずっと自分の中にあったものだ。と感じたの。それは今までになかった出来事だったから、何度も弾き比べて、考えて、これだ、とそう思った。」

とおっしゃりました。

私にはこれが今日一番の音よりも確かな手ごたえでした。

間違いなく、そういうものが存在することを私も知っている。と思った。

そしてそれを信じること、少なくとも、自分は自分の感じたものを信じて生きることがきっと自分であるということなんだろう、音楽を続けるとはそういうことなんだろうと理解しました。