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【読書】はみだしの人類学: ともに生きる方法 NHK出版 学びのきほん 松村圭一郎(著)

 おはようございます。昨日、アップしようとしていたnote。。。昨日は少し遠出していたので、時間がとれずでした。。。ので、今から書いていきます!

 本日紹介する書籍はこちら↓↓↓

 先週に引き続き、NHK出版の書籍ですが、文化人類学を専門にしておられる、松村先生の書籍です。

 一言だけ、言わせてほしいことがあります。これを知った皆さん、この本は絶対に読んでほしい1冊です。これほど面白い本は、今まで知りません。たった106ページの中に、これほどまでに興味深い内容が書けるだなんて。もう一度言いますが、絶対に読むべき本です。現代を生きていく、すべての人に読んでほしい、心からそう思う1冊です。

 私自身、文化人類学という学問自体を知らなかったのですが、字面だけで意味を解釈すると、地域の文化に対して、人類がどのように変化してきたのか、などを研究する学問のように聞こえますね。そういう側面はあるのですが、この先生のお話は単に人類におけるそういう文化的な背景を学習するものではなく、先生自身が学問を通して、自分というものが他者にとってどういう存在であるのかということや、自分と他者とはどういう関係であるか、また他者との関わり合いの中での自分自身がどのように変化していくのか、そういうことを述べられています。

 本当に良いところがたくさんあるので、あげきれないのですが、私が本書から良いなと感じた部分を少しまとめながらあげていきます。

・AIなどによる、コンピュータの世界は日々進化していき、私たちの生活の身近な存在になっている。病気の発見や自分の欲しいものの最適解など、さまざまなことにおいて、瞬時に回答が得られる時代になってきている。そこで「人間らしさとは何か」ということが、これからますます問われる時代がやってくる。

・自分という存在は、他者がいることで、存在するということ。対立していても、対との「つながり」があるからこそ、自分という存在の輪郭がはっきりする。例えば、「子ども」という存在は「親」がいるから成り立ち、「生徒」というのは「先生」がいるからその存在が成り立つ。

・分断というものは、一見それらが切り離されているように感じるかもしれないが、つながりがあるからこそ、そこに分断というものが存在する。対立や分断は、互いに全く相容れないと思う存在を必要としている。「つながり」の結果として対立や分断が存在する。

・民族というのは、境界線がひかれることによって存在している。それは地理的に接近していて、似ているモノ同士だからこそ、「あいつらは○○だが、おれたちは△△だ」のように、違うと言いたくなる。その内容が段々協調されるようになって、民族になったのではないか。

・ただ日常を過ごしているだけでは、「わたし」は「わたし」であると思って生きてきている。それが当たり前だと思って生きてきている。しかし、全く別の世界や生き方に触れることで、それまでの当たり前が覆され、それまでそれが「わたし」だと思っていたことに疑問がでてきて、「わたし」という輪郭から自分がはみ出ていく。そうやって「わたし」という存在は変化していく。

・他者との意見の違いがある時『自分』と『他者』を対立させようとしない。他者がどの視点でモノを見ているのか、その色眼鏡を借りてモノを見てみる。そうすれば、景色の違いが理解できる。自分とは違う世界を、その内側から理解しようとすることができる。

・他者と対立しないためには、自分の知識や枠組みを相手に押し付けないこと。相手と同じ立場に身を置き、相手から学ぼうとすること。そうやって『わたし』をオープンにしておけば、他者との間に「つながり」が生まれる。

・「わたし」は「わたし」であると思うと同時に、「他者」を通して「わたし」という存在を理解したり、また、「他者」を通して「わたし」という存在がゆるいで、「はみだし」ていく。そうやって「他者」と「わたし」との間が「とけていく」ことで、自分が変化していく。

・しかし、同時に人にとって「わたし」という輪郭をしっかりと持っておくということは重要な役割がある。「わたし」が「わたし」であるということに確信を持てなくなると、心の病が生まれることになる。「わたし」という存在は、だれにとっても当たり前に感じられるものではなく、失われることもある。その輪郭を維持しないと生きづらさを感じる。

・自分たちとは全くことなる文化のものを理解しようとするとき、相手と自分が全く別のものであるという分断的な発想から考えると理解しきれない。相手と自分との間の境界線は一つではない。人間同士の集団で考えた場合、○○人と日本人、それは国という意味では違うが、男と女、大人と子供、という複数の境界線を引くことで共通の認識を持てる。そうすることで相手を理解できる部分ができてくる。違うものとして理解するのではなく、複数の境界線から理解しようとすることが大切。

・人は複数のカテゴリーの中で生きている。例えば、私であれば、女、親、妻、子ども、店員、先生、友人などなど。そして、人はその複数あるカテゴリーの中から単一のカテゴリーを選んで判断をしている。例えば、「女が男をたたいた」と言えば、「もしかして、この男は女に振られたのかな」と想像するかもしれない、しかしこの女が「母親」で男が「息子」となった場合はどうだろうか。「母親が息子をたたいた」となれば、言うことの聞かない息子に思わず手を上げた母親が想像できる。どちらの表現も間違いではないが、会話の中などで使うカテゴリーは暗黙の了解でふさわしいものを選んでいる。

・私たちは特定のカテゴリーを手掛かりにして、目の前の現実を理解可能なものにしている。適切なカテゴリーがないと、ふさわしいふるまいをすることも、ある行動の意味を理解することもできなくなる。自分自身の行動を振り返る視点になる。

・複数のカテゴリーで生きる「わたし」を、「日本人」とか「男性」とかという枠組みだけで語ることはできない。人間を「日本人」や「外国人」と初めから異なる存在として固定的に捉える前提にこそ、「多文化共生」や「異文化理解」における問題の根本がある。

・「わたし」という輪郭は生きていくうえで必要だが、他者との間につくられる自分が「溶ける」感覚や、他者に対して「開かれる」自分であることで、自分の輪郭から「わたし」という存在が「はみだし」てくる。そうやって自分が変化していく。

・人生をまっすぐに引いた線のように歩むことを、今の世の中は良しとする傾向がある。コンピュータによって、常に最適解が求められ、それに沿って生きていく。しかし、そうしていると思考停止に陥る危険性があり、目標が達成されても、それがなぜ必要だったかわからなくなる。本来の目的を見失ってしまう。最適解であることは、人生を歩みやすいようにしているように感じるが、曲がりくねって寄り道をしながら、迷いながら進んでいくことで、本来であれば触れることのなかったものに触れ、変化し、どうなるかわからない道に注意深くもなれる。偶然の出来事にであって、それを楽しみ余裕をもてる。

・これから先、すべてが自動化され、先進技術に頼らないと生きていけなくなる時代に、私たちの歩みは、最小限の努力で最大の効果をあげるようにますます急かされるかもしれない。

・違いを拒まず、その違いとの交わりを自らの可能性を広げるものとしてとらえる。するとひとつの固定したゴールを定めていないので、その違いを楽しむ余裕が生まれる。「失敗」ではなく、興味深い「変化」と捉えることができるようになる。

・「わたし」という枠組みにとらわれず、そこに自分を押し込めようとせず、他者との境界を乗り越えた交わりの先に、それまでこの考えが正しいといった、固定的な「わたし」が覆され、また新たな「わたし」の輪郭を見つけ出そうともがく。その変化する景色を「おもしろい!」と好奇心にかられるまま歩んだ曲がりくねった道のりが文化人類学であると思う、とされています。

 めちゃくちゃいいところが多すぎて、抜粋しながらまとめましたが、前後がないが故、わかりにくい部分があるかしれません。もし、一つでも気になる箇所があったという方は、この本を読まれることを強くお勧めします。文化人類学について、もっと深く知りたくなったし、何より、この松村先生に本当に一度お会いしてみたい、そう思えるとってもいい本でした。今の、私に必要な本だったなと、感じました。

 ここまで、読んでくださった方がいれば、本当にありがとうございました!それでは、また次回~^^*

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