差別はどこにあるのか
知人の話です。
某注射のことを長い付き合いの友人に聞かれたため、副作用に不安を感じているため今回は打たない、と伝えたら
「受けない人とは今後は会わない」と、喧嘩別れになったと。
ちなみに
その今後は会わない、と言い切った方、先ごろのBLMのような「人権」問題には敏感だったりします。
感染予防の御旗のもとには、鈍感になってしまうのかもしれないけど、
不安があるから打たない、それもまた、選択であり、人権です。
打たない人を非難する、それもまた、差別です。
差別は、肌の色だけではありません。
そもそも、注射をすることだけが、
唯一病気にかからなくしてくれるものではありません。
大阪 泉大津市の南出市長。体に備わった力を活かす方向での健康に関する発信も多く、注目しています。
ネットで見かけました☝️
「コロナ禍を国民の健康に暮らすための学びの機会とした政府は世界中で一つもない。」
恐れながら閉じこもるよりも、人の体について、自然界の采配について学ぶ機会を持てたなら、ここからの人生をよりよく生きるチャンスになったはずなのですよ。
大人はこの先老いる一方ですから、自分の人生観や死生観を育て、深め、体の働きやウィルスの働きに対する「近視眼ではない」ものの見方を身につけなければ、今後、自分を「弱い存在」と捉えて目の見えない「敵」に怯えながら右往左往するのみです。
そういえば、以前に「ダークサイドミステリー」という番組の「魔女狩り」の回で、脳科学者の中野信子さんが「正義中毒」というキーワードでお話しされていました。
以下視聴したときのメモです。
ほんとうにそれは正しいのか?
正しいと思われていたこと、常識と思われていたことが
ひっくり返った事例はいくらでもあります。
過日、うちの小学生の娘がハンセン病について学んできました。
プリントで読んだ子どもたちの感想には「差別はいけないことだと思う」「私だったら差別はしない」というものが多かったように思います。
ただ、ハンセン病を恐れていた当時、差別をしようという意志のもと、差別をした人はどれだけいるのでしょうか?
当時は集団を守るための多数派の”最善策”だったのかもしれません。
ただ、それは歴史の審査に耐えうるものではなかった。
そう思うと、今推奨されている方策は、後から振り返ると、どう見られるのでしょう。
「知性は手放してはいけない」
今の時代に大切なのはまさにここだと思います。
活動を続けられるようサポートしていただけると嬉しいです♡いただいたサポートは、参考書籍の購入などに充てさせていただきます!