あのころの話①

 落ちも何もない、大学時代の断片的な記憶について。

 私は都内にある、いわゆる有名私大に通っていた。友達はあんまりいなかった。と、自分では思っているのだが、当時の日記を読み返すと、それなりに人に囲まれていたように、今大人になった自分の目から見るとそう見える。

 1年生の頃は、文学部だったけれど、まだコースに分かれる前で、主に第二外国語のスペイン語の勉強をしていた。このときスペイン語繋がりで取った、東大から来ていた野谷文昭先生の「ラテンアメリカ文学という視点」という授業は、私にとって衝撃的な出会いで、今もラテンアメリカ文学に親しむきっかけになっている。

 私が大学に入ったのは、東日本大震災があった年で、卒業式が簡素になったり、入学が5月に延期されたりと、それなりの影響があった。それでもあの頃の日本は、今と比べたらまだずっと楽天的で、ものすごくのんびりしていて、あんなことがあった割に、なんかそうでもないみたいな、変にふわふわした空気が漂っていた。ように思う。
 時を同じくして、スマホが一部に普及し始めていた。SNSはツイッター、ネット発の用語はリア充・キョロ充・ぼっち、ゲームはなめこが最先端で、スマホ文化の黎明期にあった。たまにネットでバカにされる、木こりファッションで髪の毛固め過ぎな男と、全員ミニワンピで茶髪の女は、まさに当時の流行である。(…こう書くと、本当に平和な時代だったんだなぁと思う。)

 私はスマホを持つのが一足遅かったし、そこまでテンプレファッションなわけでもなかったけれど、周りも、言っても真面目な人が多かったから、別にそれで浮いたりはしなかった。

 2年次以降は、どうも"本流"の記憶が多くなってくるので、ここでは1年次の話だけにする。"本流"とは、コースが分かれてからの勉強と、最終的に所属したサークルでの活動である。(バイトもしてたし、何ならバイトが一番安定してたけど、でもバイトは職場であって大学じゃないので、ここには入れない。)

 サークルも、すぐに決められたわけじゃなかったから、1年の頃は割とフラフラしていた。英語系のサークルに入って、もうほとんど確定部員みたいになりかけていたときに、先輩から「conceiveの発音はコンチーブなんだ、ほら、言って、コンチーブ」と強く主張されて、なんかそれ以降行かなくなった。今でも、ごくまれに電車で代々木を通ると、謎の文化施設で謎の英語演劇を撮影したことを思い出す。
 高校のころに入っていたなんちゃら部の大学版にも、全然行く気はないけど、あのときのお友達が大学も同じだったから、一緒に見に行った。同じ高校の同じ部活の同じ代の嫌なやつもたまたま来ていて、本当に嫌な気分になった。チャペルみたいな、大学所有の小さいホールが近くにあって、そこで活動しているらしかった。結局私は、英会話サークルと手芸サークルを同時並行しながら、2年次以降は手芸サークルをメインにするようになっていった。

 英会話の授業もよく取っていた。これは割と楽しかった。色々な学部の人がいて、数え切れないくらいたくさんの外国人の先生がいた。当時、向こう(アメリカ)では、Gym Class Heroesという音楽ユニットが一発屋で存在していたのだが、それのラッパー、Travie McCoyみたいな先生もいた。
 私は、人生で一番いい曲をひとつ選べと言われたら、Gym Class Heroesの"Stereo Hearts"を選ぶ。

 …うーん。そんなものかな。まとめると、1年次は、バイトはすぐ決まったけどサークルはなかなか決まらなくて、勉強はスペイン語と実用英語が多くて、人間関係は高校の頃のを割と引きずっていた、みたいな。そんな感じだったと思う。色々書こうと思ったけれど、1年次で縛ったらそんなになかった。


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