見出し画像

ただ話すことの豊かさと 福岡・津屋崎

街の雰囲気というものを、言葉で伝えるのはとても難しい。でも、あえて言葉にするとしたら、それは「淡いグラデーション」という感じだったかもしれない。

福岡県の津屋崎。

「対話を活用した街がある」と聞いて、「対話」と「町」という組み合わせが何とも意外で、興味を惹かれた。仕事仲間が縁をつないでくれて、6月に訪ねることができた。

延々と続く砂浜に、穏やかな波が寄せる。半島の向こうの遠い空に、福岡空港へ吸い寄せられるように、飛行機がゆっくりと下降していった。海からすぐの街中は「津屋崎千軒」と呼ばれ、江戸時代から栄えた古い家々が残る。

通りはひっそりとして、海からの風の音が聞こえてきそうなくらい。路地をまがると、住民が保存活動を展開したという元染物屋の「藍の家」から、おばちゃんたちの笑い声がもれてくる。軒先には、大根やらキュウリが並んでいた。オープンスペースに改築された日本家屋からは、歌声が。地域の「歌声サークル」の練習中らしい。

「これぞ津屋崎!」というシンボルや目を引くものはないけれど、日常の風景から優しい色たちが淡く重なりあって流れているような感覚だった。

滞在していた3日の間、私たちは様々な人とたくさん話をした。

本を手に明るい木のテーブルを囲んで、大きな窓の向こうの鎮守の森を眺めながら、遠浅に広がる海で波に足をひたしながら。

私たちは外からの来訪者だったけど、ただ「話を聞く人」ではなく、たくさん質問を受けて自分のことを話したし、ほかの人たちの話からひらめいたアイデアや感じたことを共有したりした。

美しさとは何か、消費される言葉、人のモチベーション、アートと町、流れに身を任せたときに起きる不思議な偶然、戦後の高度経済成長期で変わりゆく町に残したいと保存活動に奔走した亡き夫、昔の田植えの失敗話などなどなど。

話題はあっちこっちに飛び、時に時空を超え、終わることがない。いまだ考えたことのない未知なる話だってある。まだ言葉になっていなかったモヤモヤだって思わず飛び出す。なんだかダンスを踊っているみたいな会話の中で、笑って考え込んで、時に涙したり。

そんな話もだいたい、自己紹介や「最近どう?」という近況のやりとりから始まっている。たいそうなお題なんていらない。

お互いがリラックスして、耳を傾けあう。話されていることを受け止めて、観察してみる。興味を持ってみる。テーブルを囲む互いを大切にしながら、目に見えないけど、何か大切なことに一緒に触れていこうとする試み。それが話すということなのかもしれない。

そのプロセスの中で、相手が大切にしている思い、自分が大切に思うことの輪郭に触れる機会が何度もあった。

3日間をかけて、答えはたぶん一つも出ていない。ただ、たくさんの問いをもらったこと。何かに触れようとしたこと。その営みを初めて会う人たちと共にしたこと。それは確かに豊かな時間だったと思う。

感謝。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?