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「みんなやってるよ」の「みんな」って誰?

私たちは、慣習的にほぼ無意識に使っている言葉がたくさんあります。
その中の一つに、
「みんな」
という言葉があります。

例えば、
話題の映画の話になったとき、
「『みんな』見てるよ」
とか、
流行りのゲームの話になったとき、
「『みんな』やってるよ」
とか、
誰かを責めるとき、
「『みんな』あなたの悪口言ってるよ」
とか、
誰かを励まそうとするとき、
「『みんな』がんばってるんだよ」
とか・・・etc.

このように日常会話のいろいろな場面で使われる「みんな」という言葉。

私も時々無意識に口走ったりすることがあります。

「みんな」そうだと思うのですが、
この場合、別に全世界の80億人を意味しているわけではないことは明らかです。

この「みんな」という言葉は、「人数の多さを表現する比喩的表現」ですが、同じような「比喩的表現」は他にも探せばたくさん見つかることでしょう。

なので、別に日常会話の中で、単に、人数の多さを比喩的に表現する手段として用いる限りにおいては、全然問題ないのですが、使う人や使われる場面などによっては、気を付ける必要があります。

例えば、
科学者がある統計データを元に自説の正当性を訴えるときや、
政治家が国会で発言するときなど、
具体的な数値が重要になる場面や、発言が世論に大きなインパクトをもたらす場面、などにおいてです。

また、公の場面だけでなく、個人間での話し合いにおいても、この「みんな」という表現に気を付ける必要がある場合があります。

例えば、
親が子供にしつけを行うときや、会社の上司が部下に対して説教するとき、などです。

前者の場合、
例えば、親が子供に対して、
「学校を出たら『みんな』どこかの会社に入るんだから、お前も同じように頑張らないといけないよ。」
と言うと、
純粋な子供は、
「全世界のすべての人が学校を出たら会社に入っていて、それが当たり前で正しい生き方なんだ。」
と信じ込んでしまうかもしれません。
しかし、実際は、学校を出たからといってみんなが会社に入っているわけではなく、多種多様な人生の選択肢があって、いろいろな生き方をしている人がいるというのが実際のところではないでしょうか。

また、後者の場合、
例えば、上司が部下に対して、
「うちの会社はフレックス制だけど、社会人は『みんな』9時までには会社に来て、ある程度残業して帰るのが常識だよ。」
とか時代錯誤なことを平気で言ってたりすると、今の時代、下手をすると、パワハラだと訴えらえる危険性すらあります。


よく、会社を経営している実業家や評論家など、日本のご意見番のような人たちがYouTubeの動画で、
「これからの時代『みんな』〇〇するようになる。」
とか、
「成功してる人は『みんな』〇〇をやっている。」
とかいう感じのことを発言しているのを耳にすることがありますが、
著名で、その動画を観る人たちも多いことを考えると、迂闊に「みんな」という表現を使うのは避けた方が良いのでは、と思うときがあります。

聞いている人たちが、みんながやっているのだから自分もやらなければ、と思い込んでしまったり、自分だけが出来ていないことに対して自己否定感を抱いたりしてしまうと、あまり良い影響をもたらさないのではないでしょうか。

今回取り上げた比喩的表現の一つである「みんな」という言葉もそうですが、人間は無意識に他人の言葉に影響されて洗脳される危険性があるので、聞く側の私たちは、常に注意して、自分の頭で考える習慣をつけておく必要があります。

ただでさえ私たちは学校教育や家庭などにおいて、小さい頃から「洗脳」されて育っているので、私たち大人は普段からさまざまな情報に対して、
「本当にそうなのだろうか?」
と疑問をもって考えたり調べたりすることが大切なのです。

このように普段から情報に対して受け身になるだけでなく、
「この情報は真実だろうか?」
と考える習慣をつけると、頻繁に「違和感」を感じるようになります。

この「違和感」こそが、あなたがこれまで受けてきた洗脳から解放されつつあるサインなので、心の中でフッと感じる「違和感」を大切にしましょう。

以下の記事は、この「違和感」について書いたものです。
よろしければ参考にご一読くださればうれしいです。




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