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生まれて初めて「死」を知った日

小学2年生のとき、おばあちゃんが死んだ。

享年54歳、
スキルスという難しい胃癌だったらしい。

初めてのお葬式の日

「なんで人は死ぬっちゃかね?
(筑後弁→標準語 なんで人は死ぬんだろうね?」

「死ぬってなんやかね?」
と聞いたら

「しっ!そんなこと言っちゃいかんよ」

と、なんで聞いたらダメなのかも
よくわからないまま

親戚の大人たちにまで責められて、
とにかくダメなことをしてしまった
という罪悪感と恥ずかしさが残った。

おばあちゃんが死んだその日は
ちょうど九州を襲った驚異的な台風が
いつもとは違う異様な夜を演出していた

雷の青白い光と地響きが鳴り続け
家族4人で住んでいた小さな借家が
吹っ飛んでいくのではないかと思うほどに

暴風雨が窓やガラスを叩きつけ
さらにカオスな不安を煽った。

布団をかぶりながら
必死で弟と自分を守ってた気がする。
(たぶん本気で危機が迫って
いると思ってたのだろう)

いまだにこの台風で観測された
最大瞬間風速が
観測史上第一位の記録らしい。

とてつもなく長い時間に感じた。

家には母方の
洋子おばあちゃんが来てくれていたのだけれど
夜中なのに父も母も帰ってきてない
イレギュラーな状況に心細さを感じていた。

そして家が吹き飛ばされるほどの台風なのに
外にいて大丈夫かなと心配もしていた。

おばあちゃんが入院している
病院に行っているらしい。

家の固定電話に1本の電話が入る。

わたしは飛び起きて
なんの電話だったのか聞きに行ったのだけれど

洋子ばあちゃんは
「お父さんもお母さんも
まだ遅くならっしゃるし、
明日も朝早かけんはよう寝らんね」
と言って内容は教えてくれなかった。

もっと何か話してたはずなのに
なにか隠されている感じがしたのを覚えている

そのとき漂った空気感に

なんとなく
おばあちゃんと過ごしたあの日々を
もう2度と過ごせないような気がして
どんどん嫌な気持ちになっていったから

それ以上は何も考えないようにして
一生懸命眠りについた。

おばあちゃんのことをわたしは
「スナ子ばあちゃん」と呼んでいた。

父方のおばあちゃんで
着物と真っ赤な口紅が似合う
品のある優しい人だった。

余命がわかった時に、おじいちゃんを置いて
これまでの生活のすべてを手放して

一番好きだった人と一緒に過ごしたんだと
大人になってから聞いた。

自分の命に制限があることを受け入れ
自分の最期が見えた時に初めて、

人は関係性やお金や環境という制限を
すべて取っ払えるのかもしれない。

死を前に、自分が本当に求めてきたのは
この世の有限の成功や環境やお金じゃないことに
気づいていくのかもしれない。

そしてその衝動を与え突き動かしたのは
「死」という人生最大の闇であり、

生まれた瞬間から
ずっとずっと人生をかけて求めている
「愛」だったということだ。

もっというなら人生の最期に人は
愛されて、愛し合って
満たされた自分に出会いたいのだ。

出来ればその状態を知って
安らかに眠れるかもしれないと希望を持つ。

だからこそわたしは、
その有限のすべてを手放してでも
貫き通したスナ子ばあちゃん決断に

「かっこいい!スナ子ばあちゃんナイス!」
と思ったんだけど

実際周りの人はあんまりナイス!
とは思ってなかったみたいだ。

人は、周りの人が納得する
妥協ポイントを大事にしないと
批判の対象になるらしい。

誰のための
なんのための人生なのだろうか...

とか呟いてみる。

わたしが保育園に通っていた頃、
スナ子ばあちゃんは
だいぶ年季の入った赤い軽自動車に乗っていて
かまどやというお弁当屋さんで働いていた。

わりかし広い土地と大きな家に住んで
外で働いたこともなかったおばあちゃんが
わざわざ家を出て働き、
慎ましく暮らしていたということになる。

実は、おばあちゃんが死んで20年後に
おばあちゃんが書き留めていた家計簿を見つけて
わたしは号泣したことがある。

パートで稼いだ決して多くない一桁の収入の中から、治療費や自分が死んだ後に
子供たちに残すお金について毎月記載してあった。

何度も消したり書いたりした筆跡の跡に
やりくりしていたことがうかがえる。

そんな中わたしの入学式に
すっごく質のいいワンピースを
買ってくれてた。

なんだかな、
その家計簿にはおばあちゃんの愛と

自分の死に向き合うことへの恐れや
死期が迫ってくるリアルを垣間観た。

言葉にならないまま
おばあちゃんを感じて祈った。

時折り予告もなくスナ子ばあちゃんが
保育園にお迎えに来てくれていたのを思い出す。

あの赤の年季の入った軽自動車は、

鍵は手動で押し込んだり
引っ張っりあげたりするやつだし

窓ももちろん
自分でくるくる回転して開閉させるやつだ。

冷房も効かなかったけれど
窓を全開にしてドライブするのは楽しかった。

そういえばわたし、
赤い車が見えると
全部がすな子ばあちゃんだと思って
ワクワクして指差してたな。

お迎えの後はスナ子ばあちゃんの仕事場へ行き
終わるまで控室で待っている間に
よく唐揚げやおにぎりを
つまみ食いさせてもらっていた気がする。
つまみ食いというのが楽しい。

そして1番忘れられないのは

スナ子ばあちゃんちに
泊まりに行った日は必ず
「ゴロシだご」
というおやつを作ってくれていたことだ。

よく帰りがけに
一緒にスーパーで材料を買って帰った。

今知ったのだけれど
「ゴロシだご」という
ちょっと怖い名前の食べ物は
(福岡南部にある)筑後の郷土料理らしい。

きしめんのような平たい生地を茹でて
きな粉をたくさんかけて食べるのだけれど
とにかく後を引く美味しさなのだ

おばあちゃんのきな粉の塩加減が絶妙だったのか
生地のもっちり感なのか、茹でかたの加減なのか
単にわたしが異常に
きな粉好きな子供だったのかは不明だけど

とにかくスナ子ばあちゃんが作る
ゴロシが大好きだった。

(ちなみに、わたしは筑後生まれだ。
八女や久留米、柳川、
その辺りの方言で構成されている。)

スナ子ばあちゃんは
翌朝わたしを家に送って行く時にも
必ず車の中にお皿ごと熱々のゴロシを
持って来て食べさせてくれた。

助手席で夢中で食べるわたしを見ては
「熱いけん気をつけて食べやんよ」
「美味しかね?また作ってあげようね」と言って
スナ子ばあちゃんはいつもニコニコ笑っていた。

でもそんな大好きなおばあちゃんが
なんとなく時折みせるもの淋しい顔も
わたしは知っていた。

スナ子ばあちゃんはわたし以外の大人と話す時は
なんだか怖い顔と寂しそうな顔を
していることも多かった。

子供にはみせない大人の事情というやつだろう。
(みえてるけど...)

そんな姿を見たらキューッと胸が締め付けられた。
可哀想で、寂しそうで、苦しそうに見えた。

なんだかわからないけれど
おばあちゃんが一人ぼっちな気がして
守ってあげたい、大丈夫にしてあげたいと
5歳とか6歳のわたしが
強く思ったのを覚えている。

大人と話す時のおばあちゃんは
とても窮屈そうだった。

どこまでも、
子供のわたしから観た
すな子ばあちゃんの一部なのだけれども。

そんな中いつの間にか
おばあちゃんは死んだ。

病気だということも
当時のわたしは知らなかったのだろう。

あとから、
わたし知ってたらもっと会いたかった!
とクレームした気がする

そして冒頭でも書いたように
「死」というものを知らないまま
おばあちゃんのお葬式に出席して

純粋に「死」について聞いてみた結果
反射的に制されて
罪悪感と恥ずかしさを抱えたわたしは

そのあとお葬式では周りの大人に合わせて
悲しそうに振る舞い、泣こうと頑張っていた。

(7歳、すでに空気を読むことをマスターした… )

式では、鳩の入ったゲージを開けるのを任され
本当は鳩を見てテンションが上がったけれど
それを隠したまま神妙な顔をしてボタンを押す
という役目をこなした。

お経は長くって
よくわからないまま時間を過ごし
お葬式も終盤に差し掛かった時

最後は棺が開かれて
おばあちゃんの顔の横に献花した。

その時に初めて
スナ子ばあちゃんが
動かなくなっているのを観た。

その瞬間、わたしの感情は乱れた。
涙が止まらない

「死ぬって何?」
「死ぬって何なの?」

とんでもない恐ろしさがこみ上げて来た。

おばあちゃんが今どんな気持ちなのか、
何を考えているのか、
話しかけたらなんて答えてくれるのか、
それがわからないことがすごく悲しかった。

そして、自分にもいつかこんな日が来るのだと
誰にも教えてもらわずとも悟った瞬間だった。

それは底知れぬ闇に
引きずり込まれる感覚だった。

寝るのが怖くなった。

その日から25年もの長い間、布団の中で
答えが出ないまま
その問いはぐるぐるとループし続けた。

存在がなくなる恐さと
生きることへの焦りと共に。

「なんで人は死ぬの?」

「なんで死ぬことが決まってるのに
生まれて来たの?」

「何のために生きたらいいの?」

という問い。

この答えをわたしは、
この日から25年後に完全に受け取ることになる。

それはいまから5年前の春だった。

AIRI

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