『Tropical Night / 熱帯夜』短編1/6
赤線は戦後にできた公娼街の俗称
半世紀前の売防法で廃止されたけど
いまもそう呼ばれる一郭がある。
キープアウトのテープが通りに張られていた。パトカーの赤色灯があたりを赤く照らすなか、赤く光る誘導棒を持った警官が、通りに入ろうとする車を迂回させている。
あたしはヤジ馬をかきわけテープの前に割りこんだ。客をしめだした土曜の夜の赤線は祭りのあとのよう。通りの両側にならぶ酒場のママやホステスたちが、不安げなようすで店の前に立っている。
「なにがあったの」
あたしはテープの内側に立っている若い警官に訊いた。
「捜査中です」
そっけなくこたえて警官は顔をそむけた。
あたしは左手でテープをつかみ、右手を伸ばして声を張りあげた。
「あそこの店に勤めてるんだけど」
ふりむいた警官が、あたしが指さすほうに目をむけた。店の前に救急車がとまっていた。大勢の捜査員と、通りを嗅いでいる警察犬もいる。
顔色をかえた警官が店の名前を訊いた。せきたてるような口調だった。〝スカーレット〟とこたえると警官の顔はこわばった。あたしは持ちあげられたテープをくぐり、警官は数歩さがって肩につけたマイクを手にとった。その間もあたしから目をはなさなかった。
バッグのなかでケイタイの着メロが鳴った。電話は同僚ホステスのルルからだった。スカーレットのホステスはあたしとルルの二人だけ。ルルは源氏名、本名はルファ・マンザノ・タバタ。あたしよりひとまわり若い二十一歳のフィリピーナ。ジャパゆきさんだった母親から習ったとかで日本語は達者。あたしは警官に背をむけてケイタイを耳にあてた。
〈ルル、いまどこ〉
〈きいてないの?〉
〈なにがあったの〉
〈ママがコロされたって〉
〈ママって、どこのママ〉
〈うちのママよ。利麻子ママ〉
〈まちがいないの〉
〈ないわよ。マスターからデンワがきて、ケイサツがワタシをさがしてるって。どうしよう、どうしたらいい〉
ふいに肩をたたかれ、あたしはくびをすぼめた。ふりかえると堅苦しいクールビズの男とパンツスーツがよく似あう二十代の女性が立っていた。
「土方恵子さんですね」
浅黒い五十なかばのクールビズの男が警察バッジを見せながら言った。あたしはケイタイを切って、こっくりうなずいた。
シャワーをあびてバスルームのドアをあけると加賀の声がきこえた。
「なんで二千円なんだ。千円じゃないのか。千円は三十分……」
ルルはバスルームをでて、丸めたフェイスタオルを投げつけた。フロントに文句を言っていた加賀は、あわてて受話器を置いた。
「エンチョウはダメ」下着をひろいあつめながらルルは言った。
「三十分くらいいいだろう。店には同伴するって電話してやるから」
ルルは腰に手をあて加賀をにらみつけた。スカーレットに同伴手当はない。ノルマがないかわりに手当もないからだ。しってるくせに。
「またこんど欲しい物を買ってやるから」タオルを腰に巻いた加賀が、亀のようにベッドを這いながら言う。「つぎはなにがいい。シャネルか、グッチか──」
ガラステーブルのうえで加賀のケイタイが震えた。加賀は地雷でも見たように動きをとめた。
「でないの?」あごをしゃくってルルは言った。
「いいんだ」
「オクサンかもよ」
「よせ、さわるな」
ルルは両手をあげてハイハイとうなずいた。
「だいじょうぶ。女房じゃない」
ケイタイの電源を切って、加賀はくびすじの汗をぬぐった。
「なあルル、もうすこしいいだろう」
「いつ?」
「なにが」
「いつカッテくれるの」
「だからまたこんど会ったとき」
加賀がバスローブの下に手をいれた。ルルはソファーに置いたヴィトンの紙袋を見つめた。
風呂に入るという加賀をのこして、ルルはさっさとホテルをでた。外は、ムッとする暑さだった。歩きながらケイタイをチェックすると、ツヨシからメッセージが入っていた。7時2分──ちょうどシャワーを使っているときだ。気にはなったけどあとまわしにして、ママのケイタイにかける。
駅にむかいながら遅刻の言い訳を考えていると、だんだんイライラしてきた。ママがなかなかでない。いちど切ってツヨシのメッセージを聞く。
〈もしもし、オレ。ルルの事情はわかったから、利麻子ママと話してみる。ぜったい話をつけるから。またあとで電話する〉
もう、ヤダー。ルルはツヨシの番号を押した。
〈おかけになった電話は電波の届かない……〉
いつもかんじんなときにつながらない。通話を切って、ママにかけなおそうとしたとき、そのママから電話がきた。
〈もしもし、ママ〉
〈ルルか〉
男の声がこたえた。
〈だれ、マスター?〉
〈そうだ、俺だ。いまどこにいる〉
ルルは顔をあげた。ホテル街をでたところだった。
〈タチカワ。カイモノしてたら、ちょっとおくれちゃって〉
〈ママが死んだ。殺されたんだ。いま警察がきてる。ルルにも話を聞きたいんだそうだ。聞いてるか、おまえを捜してるんだ。立川のどこにいるんだ──〉
ケイサツはダメ。ルルはケイタイを切って手の甲を口にあてた。ひざが折れそうになるのをふんばって、ホテル街をふりかえる。加賀はあてにならない。どうしよう、どうしたらいい。ケイタイをにぎりしめて目をとじる。ケイの顔がうかんだ。
〈ルル、いまどこ〉
〈きいてないの?〉
〈なにがあったの〉
〈ママがコロされたって〉
〈ママって、どこのママ〉
〈うちのママよ。利麻子ママ〉
〈まちがいないの〉
〈ないわよ。マスターからデンワがきて、ケイサツがわたしをさがしてるって。どうしよう、どうしたらいい〉
なにかにおどろいてケイが息を呑むのがわかった。ルルは耳をすませた。ケイを呼ぶ男の声がして通話は切れた。
ケイのところにもケイサツがきたにちがいない。ここにいたらワタシも捕まる。ルルはケイタイの電源を切って、バッグの底におしこめた。
〈つづく〉
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