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概念理解の形成過程について 1

※深夜のツイートを数分でまとめて繋げただけなので推敲もされてない駄文です、句読点もおかしい。
テスト投稿も兼ねて。

人間が新しいものを理解する時、どのような過程で理解が進んでいくのだろうか。

先人たちが残した、既に示されている正解の言葉(しばしば抽象的)が先にあって、それを数多の人生経験で感覚的に反芻していき、最終的にその言葉を自分の血肉にする

というのが理解の流れ、だと以前は考えていた。普通感覚は1人の体を越えることがないし、残せるものは言葉しかないからだ。でも最近になってようやく、感覚で理解した後は自分の言葉で出力し直す必要がある(というか普段自分がそうしてきた)ことに気が付いた。つまり言葉を言葉で再構築するべきであって、そうでなければ、最初に与えられた正解の表面を理解するだけに留まってしまう。

言葉で目標を知る(これは必ず最初)→感覚的に理解→この感覚を自分の言葉で出力(再構築)→言葉は凝縮される(つまり、"スローガン的"になる)→自分なりの正解を標榜しながら、また数多の経験を感覚的に捉え続ける→再構築→・・・
これを繰り返して真理に漸近する…
というのがまず一つ。

少し具体的に言う。
例えば物理における"電磁気"という総体的な概念を自分がどう理解してきたか、あるいはしていくのか、に目を向け直してみたい。

雑に言ってしまえば、電磁気とは以下のマクスウェル方程式で全てになる。(個々の事例において、様々な仮定はあれど)
この4行について、用語の定義、演算の記号の意味は簡単に学ぶことができるが(つまり何が書いてあるかは分かる)、初学者に意味は分からない。
最初に正解となる結論、一般化された公式(もっと大袈裟に言えば、普遍化された真理)が示されていて、数多の経験(具体的な計算や問題演習)によって、後から感覚的にこれらの式の意味を補完していく。

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そうして感覚的な理解が進んだら、また自分の言葉で書き直す(仮定された状況に対して、適切な法則・原理の立式が自力でできるようになる)。
こういう塗装を繰り返して理解が積まれていく、というのが正しい見方だと思う。

俺ら人間は、社会のありとあらゆる生活の中で、最初に"スローガン"を文字で教えられることになる。それは体験(感覚での理解)が0のままの初学者(幼児)には意味不明の文字列だが、文字は(ひとまず)記憶される。
このプロセスは必ず言葉→感覚→言葉→・・・の順で進む。一定値進んだら言葉/感覚のスイッチを切り替えないと理解は絶対に進まない、つまり文字理解と体験理解は両輪の関係にあると言えよう。

次は「他人に暴力を振るってはいけない」という具体例を通して読んでほしい。

スローガン1「暴力を振るってはいけない」
1のスローガンは例えば倫理とか道徳と呼ばれるやつだ。これは間違いなく正しい人間の規範の一つで、凝縮され過ぎた言葉だけど体験理解がなくても取り敢えず守られるべき規範として教えられる。子供たちは、子供同士の触れ合いや文化/遊び体験といった体験理解を積んで、まずはスローガン1の意味理解を少し進める。
例えば誰かに殴られて痛い思いをした、という体験理解を得たら、スローガン2「自分がされて嫌なことは、人にもしない」とかを自分の中に言葉で据えるわけだ。
こういうスローガンを持ちながら「暴力」に対する概念やその周辺の倫理観、基本的人権みたいな概念を、俺らは同時に形成して成長してきた。

・・・

スローガンn「君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ(イマヌエル・カント)」

中学生くらいになるとこの辺まで進む。

概念Aの学習において、言葉を感覚で塗り直す工程では、具体的な理解として落とし込み、さらにその感覚を言葉に出力する工程で、人間は自分の中の概念Aに纏わる経験を抽象して言葉に置き換えている。
アナロジーを整理しよう。

言語化="カプセル化"=圧縮=抽象化

体験理解="開封"=解凍=具体化

コミュニケーションによる概念Aの伝達は、必ずカプセル化された文字列によって行われ、しかも受け取った人々がそのカプセルを各自で開封し、各々の数多の人生経験を添えて、具体的な理解に落とし込む。

「暴力を振るってはいけない」「差別をしてはいけない」ことは、小学生でも知ってるし(無邪気に、そして善意を持って)言えることだ。それでもこの世界から暴力も差別も一向に消えないのは、こういった教えが伝達経路でカプセル化されている証左に他ならない。教育、すなわち言葉によるコミュニケーションは不完全であって、各々が教えを理解するためには、やはり体験理解が必須なんだろうと思う。大人は言葉を尽くすことと同時に、子供たちが体験理解を通じて概念形成を育む"場"(まさに電場/磁場と同義)を醸成することに尽力しなければならない。

俺も過去を振り返れば、暴力や差別について、理解していたつもりでも分かってなかったことがたくさんあった。あらゆる暴力や差別は「反撃」とも言える。輪廻を断ち切らねば……。
体力が戻ったらまた続き書く、まだ序の序だ…





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