自己犠牲は美徳?自己犠牲がもたらす不運な結末

私たちは生まれる前に、

人生の目的を決め
学びのためのシナリオを描いて
地球に降りてきました。


学びの過程で
様々な困難を乗り越え
魂が成長していきます。




さて、

自己犠牲は美徳なのでしょうか?




相手のために良かれと

自分を犠牲にして
自分を辛い状態にすることは、


実は、

相手の魂の成長の機会を
奪っていることになります。




過去の私は、
まさに自己犠牲のオンパレード。



ガマンして、無理に頑張って
身体のあちこちに症状が出ても、

私の何かがいけないんだ
まだ足りないんだと一生懸命でした。




その結果、

心と身体はますます疲弊し
やってきたのは

一歩も動けなくなるという
強制終了。。



自分のためにも
相手のためにも

良いことは
ひとつもありませんでした。


あの体験は
もう2度としたくないですね。




自己犠牲からは
良いものは決して生まれません。


循環・発展・拡大は
絶対に起こらないのです。



「それ、違うよ」という

大切な学びの
痛い体験だけが残ります。



時には、

病気という
取り返しのつかない状態に
なることさえあります。



でも、それさえも、

大切な何かに気がつけば
快方に向かいます。




また、

ひとつの出来事には
複数の人が関わっています。



その出来事は、

あなたのための
学びの体験であり


同時に、

相手にとっての
学びのチャンスでもあります。



ひとつの出来事で、
お互いに、自分にとって
必要なことを学んでいるのです。




あなたの人生という
車は一人乗り。


あなただけが座り

ハンドルは

あなた自身が
しっかりと握る必要があります。



その車は、

生まれる前に決めてきた
あなたの「人生の目的地」に
向かって走ります。



相手を優先し
自分を犠牲にすることは、


「どうぞ、どうぞ」と

自分の車の運転席に
相手を座らせ、

ハンドルを
握らせているのと同じです。




その車は、
あなたの人生の目的地ではなく

相手の人生の目的地に
向かって走っていきます。




そして、


人生を終えるときに
感じるのは


「こんなはずじゃなかった…」
という後悔。。




それぞれが

自分の「人生の目的地」に向かって
車を走らせ、


一緒に並んで
同じ景色を見る時もあるし、



私、こっちの道を行ってみたいの。
じゃ、またね〜。

と違う道を進む。




それでいいんですね。




自己犠牲からは、
決して良いものは生まれません。




あなたは

あなたの
「人生の目的地」に向かって

しっかりとハンドルを握り

車を走らせてくださいね。




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