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自分を生きて、周りに生かされる。

もうすぐ夫の実家に帰省するので、義父母兄のことを聞いてみた。彼はテレビを見ながらやや不満そうな顔で、「親父はもうお年なので、耳が聞こえないから電話で話さない」とか、「義母は話す人がいないから俺に話にくる」とか、働いていない義兄のことになると機嫌が悪くなるので話題にしないとか、いろいろ問題を抱えていそうだ。そんな状態で行っていいのかと聞くと、「来て欲しいっていうから」と微笑んで、そそくさと部屋に入ってしまった。

心配だけど、状況と向き合いたくない。そんな心境なのだろう。
父が闘病中だった時の私と同じ心境だ。これまで家族に対し複雑な心境で接してきた彼の苦しみが伝わってきた。温かい心で関われない彼の弱さに、少し失望のようなものを感じた。
そしてそれは私自身への失望のようにも感じた。

私は父の介護に家族と力を合わせることができなかった。母と信頼を築けていなかったから。母とは愚痴り合う関係だった。お互い恥部を見せ合って
依存しあっていると、自分の弱さが強調されてしまい、相手も信じられなくなる。
お互いに苦しい状況の中で、支え合えると思えなかった。頑張っても裏切られると思った。結果は母は弟と夫婦のようになり、私は実家から事実上、締め出されてしまった。
愚痴は汚物だ。汚物を吐き続けていると、相手も自分も汚物にしてしまう。愚痴はあまりいうもんじゃない。

私の家族は、共依存傾向が強かったのかなと思う。その為トラブルが絶えなかった。結婚当初、私の家族のために迷惑をかけた夫には済まなかったと思う。だから忙しい夫に負担をかけない為に、自分の心配事はあまり話さないで、友人に話すようになっていた。
それ自体は悪いことじゃない。全部が全部、2人の間で解決できるものじゃない。周りに私を支えてくれる友達がいて良かったと思う。


人は、自分の力で生きてはいない。周りの人に生かされている。それを最近、実感する。
周りの人が、落ち込んでいたり、ナーバスになっていたりすると、心配だし、何か力になれることはないかと考えてしまうのは、私が育ってきた過程で、人の顔色を見る癖がついてしまったからだろう。

感じるものは感じるのでしょうがない。
感性の使い方を考えないと。

どんなふうに関われば良いのか。これは心の成熟度と経験がいるのかな。
今まで、私の周りには、上手い関わりで信頼を築くモデルがなかったので、やっぱり踏み込むことに恐怖を感じてしまう。相手が忙しそうだったりすると、大事なことも、自分で解決して、穏便に済ませようとしてしまう。


数日前、家族でスイーツを食べに行った。夫と娘は季節限定のかき氷を注文したが、私はパンケーキが美味しそうだったのでそれにした。しかし夫が頼んだかき氷がきたとき、美味しそうだな、と思った。

「なんだよ、自分を貫いて、やっぱりこっちがいいと思ったのかよ」と夫はいって、「食えよ、せっかく来たんだから」とメニューを渡した。私は夫と同じかき氷を注文した。

自分を貫いて、やっぱりこっちがいいと思ったのかよ、という言葉が妙に挑戦的に聞こえ、私はなんだか、自分を貫いたことが申し訳ない気になった。別に悪いことをしていたわけではないけど、申し訳ないと思うのは、相手と同じ感動を味わいたいという気持ちが少なからずあるからだろう。

いつも寄り添うって、本当に難しい。ピッタリと心を合わせることは。
真剣にそれをやろうとする人には敬意と、少々の怖さを感じる。境界を超えて入ってきたって、超えられないものは越えられない。そう思って踏みとどまる息苦しさに、いつも耐えている。


最近、私の友人で成功者が増えてきた。才能を磨いて、成功を掴んだ人と話していると、後味が爽やかだ。こんなことを言ったら傷つくかな、と余計な心配をしなくて良いのは、相手には確固とした自分軸があり、それに沿って生きているからだと思う。だからこっちも、自分軸でいられる。それだけに、甘ったれてはいけないな、と思うのだけど。

彼らは自分で、生きようとしている。自分の才能を使って、社会に貢献しようとしている。その責任はもちろんあるのだろうけど、還元される喜びも知っているから、孤独ではないし、余裕があるのだ。
そんな彼らだって、ふと気づけば寂しい気持ちになることはあるかもしれないけど。


そんなもんだよ。人間なんて。今日の気分が明日も続くとは限らない。みんな気分屋なんだから、いちいちそれに合わせることは無意味だ。普段の私でいて、その人に為にできることをしてあげる。そうして一緒に生きられることは素晴らしいことだ。そんなふうにシンプルに考えたらいい。


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