見出し画像

【第一回】よい翻訳ってなんだろう?~はじめに

私は、「「シャーロック・ホームズ」シリーズの邦訳における翻訳規範~延原謙の訳文を中心に~」という題で修士論文を書きました。この修士論文、非常に苦戦しました(遠い目)。その経験談を、大学院の電子マガジンで以前に取り上げていただきました。

なんとか、無事修士号は取れたので、この修士論文はこれで完成でいいのだとは思うのです。でも、修士課程修了から数年経ったいまだに、なんだかもやもやするのです。もやもやの正体を突き詰めて思ったのが、

「本当は、同じ研究者じゃなくて一般読者に向けて書きたかった」

ということでした。私が修士論文で伝えたかったことを一言にまとめると、

「よい翻訳の基準って人の数だけあるよね」

ということなんです。

いや、あたりまえでしょ。数学じゃないんだから、「1+1=2」みたいに正解が一つなわけないじゃない。

そう思われるかもしれませんが、問題はそう単純じゃないんです。学問として翻訳を研究する翻訳研究の分野では、「翻訳規範」という概念があります。これは平たく言えば「よい翻訳の基準」を指すわけですが、これの研究がびっくりするぐらい進んでいないのです。

たとえば、ビジネスとして翻訳を考えたとき、訳文が「製品として可」「製品としてありえない」とシビアに評価されます。ここにはなんらかの評価基準があるはずなのですが、これを明文化するのは至難の業です。当初の研究計画では、私なりにこれを明文化するつもりだったのに、早々に挫折しました。
私が非力だからというのもあるのでしょうが、私が調べた限り、「これだ!!」という説明ができた研究者はいません。翻訳書を担当している出版社や、洋画の日本語吹き替えや字幕を準備する映画会社、ビジネス文書の翻訳事業を営まれている翻訳会社の方や、実際に文書の翻訳を依頼している方々も、そして翻訳者自身も、ちゃんと説明しろと言われてもできないと思います。

「この訳文のここがいい」
「ここはこんなふうに訳されていたけど誤訳だ」
「この訳文だと、後段のタスクに悪影響が生じる」

これらはすべて感想です。これらの感想から、みんなが理解できる評価基準を組み立てることは困難です。実態としては、明文化できないけど感覚的・経験的に訳文を評価していて、なんとなくみんなその感覚が似かよっていることが多い、というかだいたい似かよっていると思っている、という状態ではないでしょうか。

英語の教科書に出てくる例文の王道、This is a pen. の訳文を例に考えてみましょう。9つの訳例を考えてみました。

①これはペンです。
②これはペンだ。
③ペンです。
④こりゃペンだな。
⑤ペンですね。
⑥ペンだし。
⑦ペンでしょ。
⑧ペンだって。
⑨ペンやろ。

訳例

以下、私の考える「正解」を挙げます。

1.英語テストの和訳問題の場合
①②のみ「正解」。あとはすべて不正解(もしくは△)と採点されるのではないでしょうか?
2.ビジネス文書の和訳の場合
このセンテンスが出てくるテキストが想像できませんが、文脈次第で①②③が「許容範囲」。④~⑧はカジュアルすぎる。
3.小説の邦訳の場合
小説でもこのセンテンスが出てくる文脈が想像できませんが、③、⑤~⑧が「許容範囲」かなと思います。
テストやビジネス文書であれば「正解」であった①②は、小説だと固すぎるケースが多いでしょう。かと言って④「こりゃ」、⑨「~やろ」はアウトかもしれません。「こりゃ」はちょっと古い・カジュアル(というか使用する人が限定的)な感じの言葉だと思うので、私であれば文脈にもよりますが基本的に避けると思います。方言も、ひと昔、ふた昔前までの翻訳にはよく使われていた印象ですが、現在ではPC(ポリティカルコレクトネス)的に避けるのが暗黙の了解になっているようです。

こんな簡単な文章でも、このようにどこまでが「正解」「許容範囲」で、どこからが「不正解」「アウト」なのか、すごく微妙なのです。しかも上記は私が適当に挙げたので、人によって感じ方が違うでしょう。

さて、この例ではテキストの形式によって考え方が異なることを示しましたが、実際の訳文をいろいろ見ていくと、この「許容範囲」に影響する要因がたくさんあることがわかります。私は、突き詰めていくとこの要因が「人の数だけある」のではないかと思っています。

では、私の修士論文を一般読者向けに焼き直す+書き足す、という形で「翻訳規範は人の数だけある」ということを、私なりに書いていきたいと思います。

どうぞお付き合いください。


よろしければサポートをお願いします。いただいたサポートは翻訳業の活動費に使わせていただきます。記事のKindle書籍化等を企んでいるので、その費用に使わせてもらえると幸いです。