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手から手に渡って変化する感性【陶芸家・青木浩二さん】


手にすっと馴染むこの器は、手びねりという技法で作られている。

手回しろくろで成形するものもあるが、青木さんはタタラ成形を取り入れている。粘土を伸ばしてカットし、型にのせて器を作っているのだ。 手で成形したとは思えないほどに薄く、そして軽い。

鮮やかな青色の器はそれ単体で食卓を華やかにするが、どこか存在感は控えめだ。スーパーで購入したお惣菜をポンと乗せてみると、小料理屋でいただく一品に早変わり。そういう上品さと、料理を引き立たせる力を、この器は持っている。


器を作るのは、鎌倉で作陶する青木浩二さん。

陶芸家と聞くと寡黙な職人を想像するかもしれないが、青木さんは物腰柔らかで、気さくに話してくれる。見た目よりもずっとチャーミングな彼のギャップに、ファンになってしまうこと請け合いだ。

もともと青木さんは商社で働くサラリーマンだった。退職後、趣味で始めた陶芸が現在の生業になっているが、決して楽な道ではなかったという。どのようにして、陶芸家としての歩みを進めてきたのか。

小鳥のさえずりがすぐそばで聞こえる、鎌倉の工房にて話を伺った。


―不動産屋との出会いが、陶芸家の道へ連れていってくれた

青木さんが鎌倉に住み始めて少し経った頃、友人から「鎌倉に住みたい」と連絡がきた。青木さんがお世話になった不動産屋を紹介したところ、無事に成約した。紹介のお礼にと、不動産屋のオーナーが青木さんを訪ねたことが、のちに彼が陶芸家となるきっかけだった。

オーナーが青木さんの家を訪ねると、ちゃぶ台の上に手回しのろくろが置いてあった。アルバイトをしながら趣味として始めた陶芸用品のひとつだった。「陶芸やってみたかったんだ。」オーナーは青木さんに、陶芸を教えてほしいと伝える。青木さんにとって、最初の生徒だった。

その後、オーナーから「自宅の1 階に使っていない部屋があるので、そこで陶芸教室を開いたらどうか」との誘いが。賃料はいいからと部屋を貸してくれただけでなく、生徒募集のチラシ作りから配布まで担ってくれた。おかげで生徒は集まり、青木さんの陶芸教室はスタートすることとなる。


完成を待つ器たち。「おしゃべりしながら陶芸する時間が好きでした」と当時を振り返って話してくれた。


初めは手探りだった。何せ人に教えたことがない。本で学んだり自分で作っ
てみたりしながら、教え方や作り方を試行錯誤した。教えることで技術を身に着け、そうして段々と先生になっていった。「生徒さんに先生にしてもらったんです。」そう楽しそうに青木さんは話す。

陶芸教室には、下は幼稚園生から、上は80 代の方まで幅広い年齢層の方が参加してくれた。生徒の人柄や習熟度などに合わせて作るものや教え方を変えた。とにかく観察し、気づいたことをカリキュラムに組み込んでいった。すると生徒が口コミで人を呼び、気づいたら延べ数百名もの方に陶芸を教えるほどに。 2 年が経つ頃には、陶芸教室だけで生計が立てられるまでになったのだ。


―自分の作品を見てほしい。陶芸家の思いが芽生えた瞬間



青木さん自身も、陶芸教室の開催と並行して作品作りをしていた。しかし、生徒が増え忙しくなってくると、自分の時間を思うように取れない。「自分がやりたくて始めた陶芸なのに、自分が土に触れないのはつまらない。」──その気持ちが伝わるのか、生徒が辞めていく。陶芸で生計を立てる過程では、そんな葛藤もあった。

陶芸教室は軌道に乗ったが、一方で自分の作品を誰かに見てほしいという願い。どう見せればいいかわからないが評価してほしいという、そんな欲求が青木さんの胸の内には生まれていた。

「そこで、最初は自宅の一部屋を使って、個展を開いてみたんです。そうしたら思わぬ出会いがあって。銀座にある器屋さんの奥さんがたまたま通りかかりに入ってくれました。魯山人の作品を見せていただいたり、いろんなものづくりに携わる方と繋いでいただいたり……。今もよくしていただいています。」

展示の雰囲気を気に入った近所の方は、会期中に何度も足を運んでくれた。見てもらうだけじゃなく、目の前で直接反応をもらえるのが面白く、定期的に個展を開催するように。その後、拠点・鎌倉の枠を超 えて広い世界の人に作品を見てもらいたいという思いが募り、満を持して東京での個展開催を決断した。

「東京で個展をやるなら絶対にここだ」と決めていた場所があった。神楽坂にあるギャラリースペースだ。学生時代から通っていたこともあり、雰囲気がとても好きな街だったからだ。

個展開催を決めてすぐ、目当てのギャラリーに予約の連絡を入れた。
待ちに待った神楽坂での個展開催に向けて、気合は十分だった。作品もたくさん作り、いざ搬入の日。ギャラリーで作業をしていると、一人の男性が外から様子を伺ったのち、中へと入ってきた。普段なら「明日から個展が始まりますので……」とお断りしているものだが、なぜかその日は「よかったらゆっくりご覧になってください」と口にしていた。

その男性は、陶器や料理、植物などを掛け合わせたイベントを主宰している方で、当日イベントで使用する器を探しに来たとのこと。「この器、すごくいいですね。」そうしてあれよあれよと、彼が主宰するイベントに呼んでもらうことになった。

「著名な方も多く参加されたイベントでした。こんな世界があるのかと……びっくりして。無名の自分でもいいものづくりをしていれば、この世界にぽんと入れさせて もらえるんだと、嬉しかったですね。」


その後も個展での出会いがいろんな縁を運んでくれて、青木さんの見る世界は一気に広がっていった。最初は誰かに評価されたいという小さな灯だったが、多くの方に燃料をくべてもらい、その火は今なお消えることなく燃え続けている。


―「名付ける」という気づき。鎌倉彫で修行した1 年間が教えてくれたこと



神楽坂での 個展がまだ形になる、少し前。自分に刺激を与えたいと思った 青木さんは、鎌倉彫の お店でスタッフとして働くことになる。接客や企画・プロモーションなど 店舗に関わる仕事全般を担い、どうすればお客様に買ってもらえるのかと向き合った。

彫刻漆器のひとつである“鎌倉彫”は、ひとつ数十万もする高価な品だ。作品の一つひとつに名前が付けられていて、そのどれもが丁寧に扱われている様子を青木さんは興味深く見つめていた。


当時、青木さんはちょうど陶芸教室と自身の作家活動と、主軸の置き方に悩んでいて、「このままでいいのだろうか」と考えていた時期。しかしそれは、小さな気付きによって打開される。

「私は今まで作るだけでした。作品を売ろうなんて考えていなかったんです。それじゃあだめですよね。だって作るからには、買ってもらわないと私たちの生活が成り立ちません。じゃあ、どうすればいいのいいのか。そのときに考えたのは、鎌倉彫のように器に名前を付け、PRしていくことでした。」

「たとえば、この器はpao といいます。中国語の 包(パオ) から着想を得ていて、指で器のフチを包むようにしてこの形を作っているからと名付けました。」


他にも、青木さんらしい深みのある色の世界にも、自身で名付けを行なった。日本の伝統色から取ることもあれば、造語を思案することも。青木さんの代名詞ともいえる青色「金春(こんぱる)」は、明治時代の芸者が着ていた着物の色、金春色からその名をとっている。緑を帯びた青色は、別名を「新橋色」とも言い、昔から親しまれてきた。

手馴染みや形を表現した名前と、その器を表現する色の名前。ふたつの名前によって青木さんの作品はその“らしさ”を体現している。


手に持っているのが金春。他は左から淡緑、薄香(うすこう)、山葵色。



―どんどん研ぎ澄まされていく。感性に逆らわない作陶の姿勢



これまで出会ってきた人の手を経て、自分の作風が形作られてきた。というのも陶芸教室をしていると、生徒の作り方に刺激を受けることがある。個展で出会ったレストランのシェフから「こんな器を作ってほしい」とオーダーをいただくことで、自分にはない発想や視点に触れることができる。


今まではこだわりがあった。今はこだわりを持ちすぎず、その感性のままに作っている。

悩み抜いた期間を経たことで自分らしさが確立され、それを求めてくれる人がいる。だから、あまり考える必要がない。頭で考えるのではなく、自然な状態で作陶している。


自然体であることを意識していた昔のあの日より、ずっと今は自然体。研ぎ澄まされた感覚を頼りに、今日もまた作品づくりと向き合うのだ。

自分が作っている器が日々の食事を楽しくておいしい時間にしてくれれば、もうそれで充分。「日々の暮らしの中で楽しんで使っていただけると嬉しいです。」と青木さんは言葉を紡いだ。




聞き手:やまざきまりこ(tsumugi)
語り手:青木浩二
編集:詩乃


▽追記
記事を読んで「青木さんのうつわがほしい!」と思ってくださった方へ。
青木さんは公式のウェブサイトやSNSをお持ちではありません。常設で扱ってる店舗や個展情報をお伝えしますので、よろしければご利用ください◎
来年tsumugiでもまた販売できたらと思いますので、そちらもどうぞお楽しみに☘️

店舗
「ヨツカド」鎌倉・長谷

オンラインショップ
「kokoshi cafe」
「うちる」

個展予定
「ペリーハウスギャラリー」表参道
 2021年10月16(土)~21日(木)

器を使用しているレストラン
ラぺ(フレンチレストラン)日本橋室町

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