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6.もがき、足掻き、掴む、砂漠の中の一粒の砂

 黎は改めてお見合いは断ったと言った。

 その後、わたしは毎日のようにお見舞いに行ったが、一度すれ違ったかもしれないそのお相手を二度と見かけることはなかったから、本当にお断りしたのだろう。
 出世にしても成人男性としても、みすみすチャンスを逃すとは、本当に結婚する気がないらしい。
 変なところで融通のきかない正義感はもう立派な短所だ。実は真面目って黎の長所だと思ってたけど。

 ギプスの取れた黎はすっかり元通りの生活ができるようになってはいたけれど、入院から松葉杖生活の間にさんざんお世話を焼いて立派な尽くす女になっていたので、その延長を装って押しかけ女房と化すことにした。

『今夜行くね』

『おけ。けど今日遅くなるかも』

『了解。ごはん作っとく』

 黎の家の合い鍵は、所定の位置がポストからわたしのキーケースの中になった。
 駅で待ち合わせなんかしなくても、勝手に家に上がって、黎の帰宅を待ちながら家事をしたり、テレビを見たり、わたし用のシャンプーと歯ブラシがしまわれずに置かれたり。
 黎のベッドは今、たぶんわたしのにおいがする。男女の触れ合いはないから寝るのは別々だけど、泊まるとき、黎はわたしにベッドを使わせてくれるから。

 そういった今までタブー視されていたことが何の違和感もなく、自然な流れとして受け入れられるまでに、黎の入院以降のわたし達の距離感は変化していた。
 黎もそれらのアンタッチャブルにどんどん踏み込み、侵すわたしの言動を受け入れているようにうかがえた。
 ケガをして弱気になったとか、お一人様人生に不安を覚えるようになったとかなら、まさに怪我の功名だ。そして、そのタイミングにまんまと付け込んだわたし。

 ある夜。
 特別な予定も事件もアクシデントもない夜だった。
 晩御飯のメニューも食事のときの話題もわたしの服装も、何らいつも変わらない、今夜はいつもより少し冷えるねくらいの。
 その時流れていたテレビだって、幼馴染モノの恋愛ドラマとか警察二十四時とかじゃない、なんのきっかけにもならないような内容。

「なぁ」

 黎が口を開いたのは、三度目の失敗をしないために明らかに控えられているビールを飲み干したタイミングだった。

「タカシの同僚、どうなった」
 
 わざわざ報告してなかったけど、今の生活から考えて他の男性となど会っていないことは一目瞭然のはず。

「どうもなってないよ」

「カレシはできたか?」

「カレシがいて他のひとの家でごはん作ってるって、どんな悪女よ」

 そのあたりから、今日の黎には、なにか決意らしきものがあるのがわかった。また婦警さんとそんな話にでもなったのだろうか。

「お前、もううち来んな」

「どうしたの急に。なんで?」

 そう尋ねた声は震えないように気をつけたけど、実際には全く隠せずに震えていた。
 何が黎にそう言わせているのか考えたが、少なくともここ数時間の出来事に原因は思い当たらない。

「マジで誰かいい男見つけて結婚しろ、マジで」

「マジでって二回言った」と笑って突っ込んだら、「マジで思ってるからだ」と真面目な顔で叱られた。そして、また視線をそらした。ちゃぶ台の真ん中あたりをじっと見つめている。

「大学のときの友達なら紹介できるし、結婚相談所に入会するなら俺が入会金出してやるから」

「なに親みたいなこと言ってんの? なんなの、急に……」

「お前に甘えすぎだ、俺」

「それはダメなことなの?」

「部屋はいつもきれいだし、メシも美味い、一人で暮らしてるよりずっと楽しいよ。遅くなっても帰ろう、早く帰りたいから仕事して終わらせようって思うよ」

「……ダメな、ことなの?」

 正直、拒絶されるなんて思ってもみなかったから激しく動揺する。
 わたし達の中途半端な関係にもやもやしてくさくさしてる時には、いっそ拒絶して、突き放してくれればいいのにと黎を憎く思うこともあったけど、実際言われてみると思いのほか絶望的なことだった。

「結婚ってこんなかなっていい夢見させてもらったよ。でもそんな俺の結婚プレイに付き合わせてる場合じゃないだろ。そろそろ本気で探さないと取り返しつかなくなる」

「何度も言うけどご縁があれば結婚するかもってだけで、なにがなんでも結婚したいって気はないんだってば」

「でも今のこの状況はただの俺の都合だし」

「いいよ、それはそれで。とりあえず今はお互い利害一致してウィンウィンならそれでいいじゃん」

「だめだ」

「なんで」

 わたしは、すっかり縋る女になり下がってたぶん半分泣いていた。
 情けなく、みっともなく、対面にいた黎の横にすり寄って、「なんで……」腕に触れた瞬間。

「……抱きたくなる」

 黎は膝の上で拳を強く握っていた。

「お前がいると、やっぱり、どうしても」

 衝動に耐えているのだとわかった。
 わかったから、わたしは転じた。攻めに。賭けに。決定的な絶望に。

 いつもの夜と何かが違ったとしたら、それはわたしがいつもより好戦的だったことかもしれない。
 身体のバイオリズムのせいだと思うけど、その夜のわたしはそんなメンタルで、やや捨て身、やや自棄っぱちだった。後のことは考えてなかった。

「いいよ、しても」

「よくねーよ!」

 ようやく黎がわたしを見た。顔が困っていたし、怒っていた。

「何がダメ? 子どもが心配ならちゃんと避妊すればいい。それでもできちゃったらそれはそれでわたしは一人で育てる」

「バカなこと言うな」

 黎はあからさまな舌打ちをした。

「子どもが授かったら嬉しいに決まってるだろ」

 わかってる。黎がそんな無責任じゃないってことくらい。

「形に囚われなければいいだけじゃない?」

「……は?」

 葛藤にか議論にか、すっかり消耗した様子でうなだれていた黎は覇気のない返事と共にゆっくり顔をあげる。

「法的なこととか、最悪、好きとかの気持ちもいったん置いといて、共に生活して助け合えるなら一緒に暮らせばいい。黎が抱きたくてわたしが抱かれたいなら抱き合えばいい」

「気持ち置いといてって……そんな」

「わたしは、前からセフレでもいいって思ってた」

 絶句。というのがぴったりな黎の反応を見ながら思う。
 自惚れじゃなくて、黎は愛のないセックスをわたしとしない。わたしとするセックスに愛がないことはない。
 そこは、ずっと信じてる。
 問題はそこじゃないって信じてる。
 そこが、わたしの長い幼馴染人生の拠り所、いや希望だった。

「違うよ。ヤリたいとかそこじゃないんだよ」

「わかってるよ」

「俺は……俺は怖い。殉職したり瀕死の状態とかで、円が泣いたり悲しんだり、そんな想いをさせるかもしれない場所にお前を置くことが怖い」

 わかってはいたけれど、はじめて黎の口から明確に聞く結婚を厭う理由。わたしを遠ざける理由。
 バカだな。
 黎はバカだ。

「自惚れないで」

 私は強く言った。

「黎が死んだってそこまで悲しまない」

「へ?」

 わたしを悲しませたくないと言いながら、それはそれで「なんで?」みたいな顔になった。

「あのときの先輩の奥さんみたいに泣かない。だてに今まで『ただの』幼馴染をやってきてないよ! 依存しないように気をつけながら生きてきた。わたしを幸せにしてやるだなんてただの黎のおごりだよ。黎が死んだ後のわたしの人生にまで勝手に責任持とうとしないでよ。勝手に諦めないでよ」

 わたしはわたしの幸せの責任くらいは持つ。
 起こらないかもしれない心配事で不安になるなんて馬鹿げてる。人生、損してる。

 黎はあっけにとられていたが、やがて、ふっと肩の力が抜けたのと同時に笑って、

「やばい」

 そう言って、すぐ隣にいる私を抱きしめた。

「惚れるわ、マジで」

 黎の匂いが近くて、涙がまたこみ上げる。でもこれは、きっともう我慢しなくていい涙だ。
 私も黎の背中に手を回す。

「その分、今、愛してよ。愛せる時にめいっぱい愛してよ。黎がいつか死ぬ日までに一生分幸せにしておいてよ」

 ゆっくり腕をゆるめた黎から解き放たれ、お互いの顔が見えるとわたしの頬に伝う涙を指でぬぐわれる。

「死なない。……死ねないよ。こんな、俺に愛されたがってる円残して、死ねないよな」

「すごい時間を無駄にしてるんだから、わたし達」

「うん」そう言ってまた抱き寄せられる。

「まだ、二回しか抱いてない。こんなに、こんなに長く、近くにいたのに」

 そのまま古い畳に押し倒されてキスを受けた。
 キスさえ何年ぶりかの何回か目。
 人生の何千日を不器用で心配性な男のせいで棒に振ったのだろう。

 もう諦めていた。
 諦めの中だから完全なる絶望もなくて、完全でない絶望のなかにはまだ希望もある。
 わたしがずっといたのは、たとえば海水と淡水が交じる汽水域のような、かぎりなく濃度の薄い絶望と希望の境目だったのかもしれない。

「でもやっぱり」

「……なに?」

 長い長いキスで応えた声はとろけている。
 そんなわたしを愛しげに見下ろして、

「俺にお前を幸せにさせてくれよ、円」

 黎が笑った。
 




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