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5.絶望が絶望でなくなるとき、それは

 黎が入院した。

 幸いにも命に別状はなくて、元気は元気なんだけれど、逃走する容疑者を追いかけて、ビルの二階の高さから飛び降りて、その場で身柄確保はできたけど救急車で運ばれて、緊急手術になって、目が覚めて起きられるようになって、そこへたまたまわたしがいつものように定期の連絡をしたからようやく黎が入院していることを知ったけれど、そのときすでに五日が経っていた。

 たしかに聞いたことがある。法的に親族、家族でないと医療行為における役割は制限されるって。何の力にもなれないばかりか面会もできなかったり、ましてや緊急連絡なんかも来ないだろうし、事実婚でもそうなのだから、幼馴染なんてお粗末すぎてお話にもならない。
 幼馴染の無力を痛感する。
 わたしの存在の無意味を痛感する。

 それでもわたしは、内縁の妻でも彼女でもないただの幼馴染の分際で、次の日も病院に行った。

「円さん!」

「あ、どうも」

 一階の、今はもう診療時間外の外来を通りかかったとき声をかけられた。
 進藤さんは黎の後輩で、昨日入院を知ってわたしがかけつけた時に紹介してもらった。
 黎に似て細身の、身長は黎より少し低いくらいの三つ年下らしい。
 
「よかったー、待ってたんです。今、先輩のとこに他のお見舞いの方いらしてるんです」

「そうなんですか」

 その間にお茶でもいかがですかと誘われて、と言っても自販機スペースだったがそこで先客のお帰りを待つことにした。

「先輩とは小学校から一緒なんですよね?」

「幼稚園も一緒なんです。もう腐れ縁ですね」

「実はお付き合いされてるとか?」

「えっ、いいえ、ないない。ないです」

 慌てて首を振って否定する。

「黎とは、なんだかんだお互い独り身なのもあってたまにご飯とか作りに行ったりしていて……」

 何かをごまかすためにわたしは笑った。

「えー、先輩、円さんの手料理食ってんですか!」

「わざわざ作りに行くほどの腕前でもないんですけど……。食生活とか心配で」

「それはまぁ、確かに。ほぼカップ麺かコンビニですからねー。それは僕も同じくですけど!」

「失礼ですけど進藤さんはお付き合いされてる方は? 彼女さん作ってくれたりとか?」

「それこそないですよー。二四時間三六五日常時彼女募集中です。いいなあ、身体心配してご飯作ってくれる幼馴染なんて最高じゃないっすか!」

「黎に彼女ができたら、こういうのはやめようと思ってるんですけど」

「あー、その、実はですね」

「はい?」

「先日、先輩が課長の命令でお見合いをなさいまして」

 進藤さんが言った。無神経なふりでもなく、わたしに言いにくそうにするでもなく。

「そう、なんですか……。あ、もしかして今お見舞いに来られてる方って」

「ええ、そのお相手の方で」

 わたしは少しだけ動揺する。今この時に、とても予想していなかったことだった。
 黎に言われてなのか自ら気を利かせてのことなのか、わたしが病室に行かないように下で待っていてくれたということか。

「うまく行きそうなんですか?」

「先輩次第ってとこじゃないですかねー。お相手の方、課長の娘さんなんですけど、手術のときも課長に言われて呼びつけられて付き添って下さってたみたいで。事件処理でこっちもバタバタしてて先輩のことなんて放ったらかしだったんですよ」

 そして進藤さんが、今後こういうことがあった場合には連絡したいからと言うのでわたしは連絡先を交換した。

 結局その日、黎を見舞うために顔を出すことはしなかった。

*

「おう、昨日は悪かったな」

 これからどうしようかと考える前に、黎からメッセージが来て、わたしはまた次の日も病院に向かった。
 『来て欲しい』とあったから。

「昨日は進藤さんとお茶して面白かったよ」

「何話して面白いんだよ」

「黎のハナシー」

 わざとらしい含み笑いをすると、「俺のグチだろ、どーせ」とふてくされた顔で起きていた姿勢からベッドに背を倒した。

「俺のパイセン、スゲー自慢だって」

「はいはい」

 黎は適当にそう返事して、
「おい、なんか持ってきてくれた?」

「あ、うん。唐揚げとおひたし」

 実は病院の食事が足りないと黎が言っていたので、昨日も差し入れのお惣菜を持ってきていた。
 けれど、会わずに帰ったので、進藤にそれを言付けたのだった。

「昨日のは進藤が半分食っちまったんだよ」

 不要なら申し訳ないけれど処分してくれとめんどくさいことも頼んだんだけど。

「そうなの、よかった。進藤さん、家庭料理に飢えてるって言ってた」

「飢えさせときゃいーよ」

 がつがつと冷えた唐揚げを食べる黎にたずねる。

「着替えとか、足りないものとかない?」

「今んとこ、いけてる。進藤に持ってきてもらってるんだ。職場に、そこで暮らせるくらいいろいろ置いてあるからさ、こういうとき便利だな。まー、もしどうしてもウチのもんいるときは頼むわ。あ、合鍵は例のトコな」

 わたしは頷きもせず、しばらく黙ってから、たずねた。
 強がりではなく、とても心は穏やかだった。

「お見合いしたんだって?」

「あー、上官命令。パワハラだよ、パワハラ」

「うまく行きそうなの?」

「行くわけないじゃん」

「課長のお嬢様なんでしょ? お金とコネと権力はあって困るものでなし」

「出世欲が俺にあると思うか? それに、俺が結婚考えてないのは彼女も知ってるし」

「それ、なんか不誠実なんだけど」

「だからー、見合いはもう断ってるんだって。たまたま、骨折っていうイレギュラーな事態のせいでまた顔合わせる機会ができただけで」

「まあ、わたしは安心した」

「なにが?」

「黎が野垂れ死んだり、孤独死することはなくなるかなって」

 日はすっかり短くなった。
 しばらくの時間、病室の外から聞こえる看護師さんの声と、どこからともなく響く電子音だけに包まれる。

「さて、帰ろ」

 わたしは腰を上げる。

「え、もう帰んの?」

「お見合いした人、またお見舞いに来てくださって、わたしと鉢合わせしたら困るでしょ」

「困らねーよ」

 黎は言ってから続けて、
「いや、もう来ないんじゃね? 向こうも仕事忙しい人らしいし」

「そうなの」

「また差し入れ頼むわー」

「太るよ。普段より動かないんだから、カロリー計算された病院食でおさめとかないと」

「筋トレがんばる」

 たしかに枕元にはダンベルがゴロゴロしていた。

「まあ、また来るよ。……黎、何も言ってくれないから、わたしが知らない間に勝手に死んじゃってるかもしれないって今回のことでわかったから」

「だって、わざわざ言うのもさー。お前に心配かけんの悪いし」

 帰り道、ナースステーションの前で、気になる女の人とすれ違った。別に、何でもないただの若いきれいな女性。
 どの部屋の誰へのお見舞いなのか確かめなかったけれど、女の勘はそうそうはずれない。

 「……慈愛」

 廊下に飾られていた素人の油絵のタイトルが、ふと目についた。

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