11.新しい生活様式はガマン罪 #絶望カプ
新しい生活様式というものが取り沙汰されている昨今、俺の生活にも新しい変化があった。
ただし、マスクとか外食とかそういう話ではなく、それはごくごく俺だけの、俺オンリーの新しい生活様式。
「ただいま」
「おかえりー。早かったね」
そりゃすげえ勢いで報告書を終わらせたからな、とかいうのはわざわざ言う必要ないだろう。
俺だけの新しい生活様式その一、『帰ったら円が台所に立ってる日が結構ある』。
確か最初は、ギプスは外れたけどまだ不便もあるだろうし、独り暮らしだと無理もするだろうしとかいう話だった。それで円が面倒を見に来てくれるようになった。怪我をする以前よりも頻繁に。
「もうすぐで包み終わるから」
ずらりと並ぶ生餃子。餃子は円の得意料理で、包むのがびっくりするほど上手で、味もめちゃくちゃ旨い。今夜のメニューが餃子だと知ったら進藤がさぞ悔しがることだろう。先日、進藤も呼んで開いた餃子パーティーであいつは感動して一人で五十三個を食すという記録を作ったくらいだ。
「んじゃ着替えたら焼いていくわ、俺」
「ありがとー。ホットプレート出すとこからよろしく」
「円、ちょっと」
忙しく手を動かす円に近づいて、その頬に俺は指で触れた。瞬間、円が緊張したのが伝わってきて失敗を悟る。
「こ、粉ついてた! から!」
「あ、りがと」
当然だけどこういう種類の緊張の瞬間が増えた。
曲がりなりにも男女。付き合ってない男女なのだから、言動には気をつけないといけない。俺はさらに気をひきしめた。
「あー、食った食ったー。ごちそーさん」
「お粗末様でした」
「片付けは俺やるからテレビでも見とけ」
「一緒にやる。その方が早いし」
「作ってもらってんだから、それくらいは俺がやんのに」
並んで皿を洗う。
「お前、明日休みだろ? 泊まる?」
円は少し悩んでから、「うん、泊めてもらう」と言った。
俺の新しい生活様式その二、『円が泊まる夜もある。結構ある』。
非常事態でやむなく泊まってもらったり、終電の時間と戦ったり、あの頃の俺が今を知ったらさぞ驚くだろう。これはどういうわけかわからないけど気がつけば「時と場合によってよくあること」みたいな扱いになっていた。
毎回たずねるときは緊張するし、帰ると言われたらちょっと悲しいけど安堵もある。泊まると言われたらちょっと嬉しいけど辛さに覚悟を決める。男女の何か的なことは何もないからだ。
セフレ持ちの進藤のようにドライな若者感覚にもなれず、かと言って身体だけと割り切ってしまうにはふさわしくない歴史の長さと重さが俺たちにはありすぎる。
「明日、俺も非番だしどっか行くか?」
「映画観たい」
「いーよ。何観んの? あー、どうぞ呼び出しありませんように」
何頼みなのか、俺が手を合わせて祈っている側で、円は冷蔵庫を開けている。
「帰らなくていいならもっと飲もー」
「えー、もうやめとけ」
最近、酔うと絡んでくるからめんどくさいというか、いろんな意味でヤバいのだ。
まだ俺らが高校生なら、いやせめて二十代前半だったら、おいしく楽しいばかりのシチュエーション。それを制する俺は律せる大人なのか活かせないヘタレなのか。
「俺走ってくるから、その間に風呂入っとけよ」
「えー、お酒飲んだのに? 今走ったら気持ち悪くならない?」
「酔ってないし、気持ち悪くもならない。平気」
こんな状況で酔えないし、部屋にもいられないんだよ。
俺の新しい生活様式その三、『夜間のジョギングの距離が増えた。それも結構な長さ』。
俺は立ち止まり、膝に手をついた。呼吸が乱れすぎている。これは血の味がするやつだ。中距離を走るペースで数キロも走ってしまった。
なまってしまった身体を鍛えなおすために走るのは以前からだが、円のいる夜に限っては目的は違うし、本気の走り込みになってしまう。
風呂上りはやばい。明らかにつやっぽくなる円とさすがに同じ空間にいるのはつらい。
1DKの安アパートはベッドルームどころか別室がない。
「引っ越すかなー」
あのボロ家ではいろいろ不都合だと考えることが増えた。
少しずつ俺の部屋に増える円の荷物。
新しい生活様式に関係あんのかないのか、飯作るときに着けはじめたエプロン。
酔うとやたら近い距離。
ノーメイク。ストレートな髪。
そして、裸足。
別にフェチとかじゃなくて、俺にとって素足ほど女性の無防備さを感じるものはないのだ。
国民をはじめ、今全人類に推奨されている生活スタイルは、今だけなのかこれから未来永劫続くのか。
空に向かって大きく息を吐くと、それが白く見えてそんな季節に少し驚いた。
「こういう感じなんだろうなー」
結婚生活というものは。
明日の朝を迎えるまでは恒例の我慢大会だ。
かりそめの幸せの交換条件として与えられる我慢。
俺だけの、俺得な、円との新しい生活様式はまあまあつらい。
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