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4.月がきれいですねとあなたは言わない

『今、円の会社の近くにいて直帰予定なんだけど、もうすぐ仕事終わりだろ? なんか食って帰る?』

 わたしと黎は外で会うことはほとんどなくて、たまに黎でなければならない特別な用事、例えば女の一人暮らしには大変な重い買い物とか、重い買い物とか重い買い物とかの必要なときは外で約束する。そのついでに食事をして帰ったことはある。
 もっとも、そんな重い買い物ばかりするわけじゃないから、つまりはほとんどそんな機会はない。

 そんなめったにないお誘いが、よりによって今日だなんて。
 他に予定のない日は山ほどあるのに、今日に限って先約があるなんて。

『ごめん。今日はデートの約束があって』

 別に、隠すつもりもその必要もない。
 妬かせるという安い駆け引きをしていたのは過去の話。当てつけでもない。そういうことで動じないのはもうわかってるから。
 たとえば相手がただの普通の男友達ならどうやって返していたかなと小考した結果、ごくごくシンプルでありのままを伝える体になった。

『マジか。がんばれ』

 すぐに届いた返信にも、喜びも落胆もなかった。
 きっと本気で応援してくれてるからタチが悪い。

 わたしはいつもより少しオシャレをして、待ち合わせの場所に向かった。
 相手はさっちとタカシの結婚式で声をかけてくれたKさんだ。
 Kさんなんて仮名にする必要はないんだけど、まだわたしの人生の登場人物かどうかはわからないから彼に名前はつけないでおく。

 Kさんが予約してくれた和食のお店は、御出汁の味が上品で、一品一品が丁寧に作られていて、それはとても美味しかった。
 食べる事を大事にできる人、そして同じものをおいしいと感じる人のポイントは高い。
 趣味が同じで盛り上がるということはなかったけれど、Kさんの世界にわたしは素直に興味を持てたし、Kさんも興味を持ってわたしの話を聞いてくれたと思う。
 お店を出て歩いていると、Kさんがふと、月がきれいだと言って足を止めた。
 確かに、少しびっくりするくらいに、白くて明るい月夜だった。
 わたし達はしばらくの間、夜空を見上げた。
 Kさんは、『星を観たりするの、結構好きなんです』と言った。
 ダメな点を数えたくならない人は久しぶりだった。

*

 後日、わたしは失った機会を取り戻すことにした。
 あさましい想いからではなくて、本当にそろそろご飯を作りに行くタイミングかなと思ったからで、それならばと。
 黎は日勤とはいえ、昼も夜もない仕事だから躊躇われて、普段電話をかけることはない。

『どうした?』

 黎はやや慌てた様子で電話に出た。

「いや、ごめん。なんでもないんだけど」

『あー、そうなの? なんかあったかと思った』

「ごめんごめん。今ちょっと時間いける?」

『おう、いけるぞ』

「この前、ごはんおごるって言ってくれたののやり直し、どうかなって」

『おごるとは言ってないな』

 確かに言ってないけど。

『けどまあ、いつもメシ世話になってるし、俺がごちそうすんのが筋だな。けどいいのか?』

「何が」

『デートはどうなったんだ』

「どうもなってないけど」

 黎は明日なら時間が取れると言うので、翌日、いつもとは違う繁華街の駅で約束をした。
 待ち合わせの時間に遅れることなくやってきた黎は、非番だったらしい。
 お店を予約してくれていたのでわたしは少し驚いた。
 そういうことができる男だったのかと。
 一品一品が安めの、小汚いともオシャレともつかない上海料理のお店だった。 
 飾り気のない小皿に、お料理が少しずつ載って、それがいくつも運ばれてくる。小籠包が二つ。餃子も二つ。手羽先も上海ガニも角煮も全部二つずつ。

「デートはどうなった?」

「だからどうもなってないって」

「どうもなってないのかよ」

「でも、どうかなるかもしれない予感はある」

 何度も言うけど、別にこの発言は駆け引きでも当てつけでもなんでもない。
 ただの現状報告だ。

「そうか」

「あれだよ。さっちたちの結婚式で会った人」

 会話が変に進まなくなってしまったので、Kさんについて言わなくてもいいことを二、三、言う羽目になった。

「タカシの同僚だって。二次会で話して」「Y大学なんだって」「実家は関西の方らしい」

「わたしは黎と違って絶対結婚したくないわけじゃないから。ご縁がないだけで、出会いがあればいくらでも考えるし」

 なんでだろう。わたしは無駄におしゃべりになっていた。

「でもそうなるとさすがに黎にゴハン作りに行ったりはできないね」

「そりゃそうだろ」

 黎との接点はあくまでも家ごはんであり、外食する機会もデートらしいこともない。
 待ち合わせて飲みに行ったりすることもなくて、水族館とか映画とか桜がきれいだねとか、そういうかんたんな目的を持って出かけることもないに等しい。
 もちろん、星も月も見たことはない。
 一度だけ、黎の部屋から花火を見たくらい。それも偶然、たまたま、その夜に窓の先に見えただけ。
 わたしの趣味がガラス彫刻であることも行きつけのバーがあることも、きっと黎は知らない。

 そういう意味ではわたし達は友達以下なのかもしれなかった。
 身体のことを心配して、ご飯を作って食べさせるために押し掛ける母親のような、そんな立ち位置。
 わたしは自ら志願しての飯炊き女。
 大義名分を掲げて、その実、下心あさましく、すがっていただけ。

「一人でも、ちゃんとご飯食べなさいよ」

「母ちゃんかよ」

「少しは自炊くらいしなさい」

「本格的に母ちゃんだよ」

 笑い合ってから、わたし達はしばらく食事に集中した。

「あ、これおいしい」

「うん、うまいな」

「世間体以外に結婚制度の意味ってあるのかないのかわかんないけど」

「そりゃお前、法律に妻や夫の地位とか権利とか、色々守られるのが結婚制度だ」

 警察官的回答、とわたしは少し笑った。

「夫とか妻とかじゃなくてもいいから、おいしいものを食べたときにおいしいって言い合ったり、きれいなもの見たときにきれいだねって一緒に感動を分け合ったりできる人がいるのはいいなって思う」

 春は桜、夏は花火、秋は紅葉、冬は雪とか、それだけじゃなくて夕焼けとか青空とか蝉とか花とか、連綿と続く日常に、ささやかな感動はいくらでもあるから。
 そしてそれらはそのときには取るに足らない風景であっても、思い出す時には決まって幸せな光景としてリプレイされるだろうから。

「そんなとき、黎の隣に分かち合える誰かがいてあげて欲しいと思うよ」

「……母ちゃんかよ」

 笑う黎の顔が切ないくらいに歪んでいた。

「そういえば」

「うん」

「いつかだったか、俺ん家から花火見たよな」

 夏はもう終わりだ。

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