見出し画像

部下に手を出す上司は信用できない6~10

1話~5話 6話〜10話 11話~15話 (全31話)

6. 堂道課長は情報がない


「えええええええ!?」

 夏実と小夜の声が店中に響き渡って、周囲の冷ややかな視線にさらされる。
 小ぢんまりしたバルで丸テーブルを囲んでいた三人は、肩をすくめて小さな輪を作った。

「ちょっと待って。……マジ意味不明なんだけど……信じられん」

「い、いや、まだね、好きかもしれないっ! てだけだから! まだわかんないから!」

「やば、ウケるー。なんで? どこが? てゆか、いつからよー?」

 青かったり、赤かったり、小悪魔だったりと寄せ合った顔は様々だ。

 最近堂道が気になると言った糸と、見事に予想通りの反応を見せた夏実と小夜とは同い年だ。
 ただの同僚なのに、学生時代からの付き合いかのように心許し合える関係を築くことができている。そんな友達に、堂道の事を隠しておきたくなかった。

「いやいやー、それはもう『好き』だよー」

「糸ー、マジでー……なんでー……」

 小夜が、糸の肩を叩きながら言った。
 夏実はまだ途方に暮れて天を仰いでいる。

「でも彼氏どうすんのー?」

「最近、別れたんだよね」

「えーーーーー!?」

 店内の視線を再び浴びて、三人は周囲にぺこぺこと頭を下げた。さらに小さく、さらに小声になって、
「それ、めちゃくちゃ臨戦態勢整ってんじゃん!」

「ちょうどいい時期にちょうどいい人と知り合えたって言ってたのにねー。糸、結婚遠のいたねー。アラサー、がけっぷち! 堂道課長なんかに道草食ってる場合じゃなくない?」

「違うよ、堂道課長は関係なくて。つきあいめんどくさくなってたから。いや、まあ、関係なくもないけどさ……」

 ヨースケには、別れは突然のことだったかもしれない。
 それでも最近、糸の目に映るヨースケがどんどん色あせていった。 
 別れようと言ったら、『わかったー』とデートがキャンセルになったくらいのノリで、二人の仲はあっけないまでに終わりを告げた。
 ヨースケにとって、糸はたいして特別ではなかったのだろう。
 間に合わせの、特別悪くはないが特別良いわけでもない、そんな物件だったのだろう。しかし、それは互いに。
 逆に、何もなければそのまま流れで、結婚へと未来は続いていっただろう。

 別れの理由は聞かれなかったが、糸は真摯に、他に気になる人ができたと伝えた。『あの』堂道だとは言わなかった。

「しかしさ、マジでなんで!?」

「糸ってドMだったのー?」

「うーん。最初はホントにホントに驚くくらい些細なことだったんだけど……」

「きっかけになるような何かがあったわけ?」

 糸は少し考えてから、疑わしい視線で夏実と小夜を交互に見て、
「……言ったら、二人ともそれに気づいて堂道課長をいいなと思うかもしれないから言わない」

「ねえよ!」

「あははー、うん。私もないから。そこは安心してー」

「ほんとに、あるんだからね! ギャップ萌えというか、意外な一面にコロっとくること!」

 きっかけはあの時だったと思う。
 トイレから出てきた堂道がハンカチで手を拭いていた、たったそれだけ。
 文章にすればそんな、なんらドラマチックでも劇的でもない一コマだ。

 人並みの、ごく普通の行為だが、糸には、あの堂道がとちょっとした衝撃だった。
 嫌味っぽく、ピッピッと他人に向けて手の水を振り払って、ズボンで拭いてそうなイメージだ。なんなら、手さえ洗っていなさそうな。
 そんな人が、きちんとアイロンしたような清潔そうな四角くく畳まれたハンカチを持っているなんて反則でしかない。

「……意外な一面の発見というか、ゲイン・ロス効果っぽいやつ?」

「ああ、マイナスからのスタートの方が些細なことでもプラスの影響を与えやすい的な?」

「たぶん羽切課長で同じシチュエーションなら絶対何も思わなかった」

 そんな一瞬の、たった一度のポイント切り替えで、糸の恋の列車の行先は突然、恋方面に変わってしまったらしい。
 簡単で単純な心理操作から、気になりだして、目で追っているうちに、いつのまにか好きになっていた。典型的な片思いの最初の一歩だ。小学生くらいの女子レベルだけれども。

「いや、まあ、それでね」

 咳払いをして、糸は本題に移る。
 二人にカミングアウトしたのには、他に理由があった。
 今後、堂道の悪口には付き合えないという意味もあるが、一番の目的は情報収集だ。

「堂道情報? 知らないよ。知りたくもないわ」

「私も。全く興味ないしー」

「なんでもいいの。どのあたりに住んでるかとか……」

「立派にストーカーだねー」

「ごめん、糸。堂道のプライベートとか想像しただけで吐きそう」

「いやいや、数週間前の私ならその気持ち十分わかったから、気にしないで。そもそも、まだ好きとかじゃないし……」

「はいはい、好きじゃない好きじゃない」

 流されたボートの舵が取れないのと同じように、落ちかけた恋に自力で逆らうことなどできない。
 無駄な足掻きとはわかっていても、一応否定はする。糸自身がまだ信じたくないのだから仕方がない。

「堂道課長ってさ、結婚してたんだよねー?」

「入社したときは既にバツイチだったよね?」

「うん……。新人の頃、そう聞いたよ」

 糸は頷きながら心臓がつきりとするのを感じていた。それがもう、まだ不確かだと決めかねている気持ちの答えといえる。

「結婚できたってことはさ、糸以前にも堂道課長のことを男としていいと思える女の人がとりあえずはいたってことだし、男としてはイケてるのかもー? そこは興味あるなぁ」

 魔性の女の素質が大いにある小夜は楽しそうに言った。

「ないわー。人としてナイのに男としてアリとかそんなことある!? あ、糸ごめん……」

「いや、もうそこ気遣ってもらわなくてもいいんで……そもそもまだ好きとか決まってないんで……」

「とにかく最終的には離婚してるんだから、やっぱ男としてもナイんだよ! あ、そういえば、住んでるのは神奈川だったはず。出張精算の発着が横浜だわ、そう言えば」

 さすが同課の夏実。大きな戦力になる。

「遠いって羽切課長が言ってた」

「結婚した時に買った家とか、そんなんじゃない?」

「転職組って聞いたかも」

「え、そうなんだ!?」

「だいたいいくつなの? 糸、何コ違い?」

「たぶん四十……じゃなかったかなぁ? だから十四、五年上」

「情報、全然ないねー。ウケる」

「人望のなさが浮き彫りに……」

「違うよ! 人望がないんじゃなくて、人と交流がないんだよ……。みんなに遠慮して。自分が嫌われ者だから……」

 糸が視線をあげると、夏実は憐みの顔で、小夜は面白がってる顔で見守っていた。
 
「あー、だめだわ、糸、もう恋しちゃってるわー。ホンットに本気で信じられないんだけど!」

「ウケるー」


7.堂道課長は探している


 糸の会社の営業部には、『ある日突然の配置換え』はない。

 あるにはあるが、いきなり『堂道課長の直属の部下になる』とか『専属の秘書になる』ことはありえない(そもそも堂道はそんな身分にない)。
 当然、二人きりの出張も残業の可能性もない。

『資料室やエレベーターで二人きり』くらいならあり得るかもしれないが、それもかなりの偶然でしか起こらない。
 実際、就職して四年。前述のシチュエーションで堂道と二人だった経験は、先日の資料室の一度だけだ。
 
 資料室の一件は、きっかけの一つだったといえばそうだし、あの時は全くそんな気がなかったのだから仕方がないにしても、せっかくの機会をもっと堪能できなかったことも活用できなかったことも悔やまれる。

 しかし、たとえば糸がコピー機を詰まらせたり、資料をぶちまけたりするなど業務上のピンチであろうと困っていようと堂道は助けてはくれないだろうし、糸が小洒落たバーで一人で飲んでいても堂道が偶然入ってくることもないだろう。
 実際、先日偶然かち合った居酒屋でさえ、待ち伏せのように何日か飲んでみたが、あの夜のように堂道が暖簾をくぐって入ってくることはなかった。

 あるいは、糸が上司に見合いの斡旋を頼んだとして、間違ってもその席に堂道が選ばれて来るようなケータイ小説のような展開は天地がひっくり返ってもないだろう。そんなことで来てくれれば、話は早いのだが。

 そんなわけで、直属の上司でもなく、優しい上司でもなく、周りから慕われているわけでもない堂道と糸がお近づきになる方法はほぼないに等しかった。

「二課で飲み会開いて! お願いします! 偶然装って合流するから!」

 万策尽きた糸に夏実はつれなかった。
 見向きもせず、コンパクトの鏡から視線を外そうともしない。
 場所は昼休みの女子トイレ。作戦会議のはずなのに、夏実はパウダーをはたくことに専念している。

「どんなに頼まれても無理だって! 絶対無理。計画も参加も絶対したくない、そんな飲み会」

「夏実さまー」

「万が一計画したとして、あいつ絶対来ないよ」

「そこはなんとかうまく誘ってさ」

 夏実はため息を一つついてから、しつこくねだる糸の両肩に両手を置いた。

「糸、聞いて。あたしだってね、糸に協力してあげなきゃって頭ではわかってても、心が言う事を聞かずに拒否してるの……。坊主憎けりゃじゃないけど、そのうち糸の事まで嫌いになるかもしんない。……先に謝っとくわ。すまん」

「ええー、そんな悲しいこと言わないでよー」

 最近の糸は、夏実をジレンマで悩ませている。

「でもさ、糸がもし付き合いでもしたら糸経由でDDに文句も言えるし、弱みも握れるかもよー?」

 小夜は完全に人ごとで、飄々と楽しそうだ。
 ちなみにDDとは周囲を憚った隠語。『堂道』で『DD』だからたいして隠せてもいないが、一応の配慮だ。

 とはいえ、堂道の悪口はもはやフロアの共通語みたいなものなので、今さら隠す必要もないのだが(本人に聞かれないようにさえ注意を払えば)、最近は話題の方向性がただの愚痴だけじゃなくなくデリケートな乙女心に抵触するので糸たち三人はそう呼ぶことにしたのだ。

「糸ォ、お願いだよ。マジで目ぇ覚ましてよ。あいつはありえないよ。どこがいいの? 何がいいの?」

「あはは、もう手遅れだよー。ねー、糸」

「いや、まだ好きとかそんなじゃ……」

「わかった。百歩譲って、DD好きでももういいからさ、他の男も並行して探そう。糸はね、今熱病にかかってんの。流行病にかかってて、ちょっと目がおかしくなってるんだよ。だから、セカンドオピニオン的にね。他の人にも目を向けて、リハビリ的な?」

「……いま他の人に興味持てない」

「はい、アウトー」

 ポーチをジッと鳴らして閉めると、夏実はランチ後の化粧直し終えた。

「夏実ー」

「二課飲みはないけど、合コンなら喜んで企画するよ? とにかく合コン行って、他見てみよ! それから飲み会のこと、考えてあげるから!」

「合コン、私も普通に行きたーい」

 小夜がのんきに手を挙げる。

「オーケーオーケー。夏実様に任せなさい」

「夏原」

 女子トイレから出たところで、ダミ声に呼び留められた。
 街中でパトカーを見かけた時のような条件反射で、理由もなく緊張が走る。
 
 糸を除く二人の、「ゲ」という心の声が聞こえてきそうだ。
 もっとも、糸もつい数週間前までは、同様に「ゲゲっ」と思っていた。
 しかし、堂道をちょっと好きかもしれない糸でさえ、今もまだ「よっしゃラッキー!」と軽々しく思えない謎の威圧感がある。
 ドキドキはするけど不安のドキドキの方だ。
 話声がうるさいとでも怒るのか。

「……お疲れ様です。何か?」

 夏実の声のトーンが五オクターブ下がる。

 堂道が近づいてきて、タバコの匂いがした。
 二人は「臭っ」と思っているだろう。糸も少し前なら以下略。

 昼食の後の一服だろうか。最近知ったその銘柄は赤い丸のロゴのもの。
 堂道の机の上にある箱を、先日の送別会の夜に見たのだ。

「夏原、合コンしたいわけ?」

 世間話といった雰囲気ではなく、堂道は怒ったようにそう言った。

「はい?」

 夏実の受け答えにも相当険がある。

「合コンって言ってただろ」

「言ってましたけど、別にしたくありません」

「なんだよ、そーなんかよ。どうしてもって頼まれてるのがあったから、もし相手探してんならと思ったんだけど」

 堂道は、めんどくさそうに後頭部をぼりぼりと掻きながら言った。

「いいえ。探してませんので。他をあたってください」

 塩対応を極める夏実に、対する堂道は舌打ちで応戦する構えだ。

「んだよ、こーいうのもセクハラとかになるわけ? ったく、話もできねーのかよ。ヤベーヤベー」

 堂道がポケットに手を突っ込んでガニ股で歩き出す。
 能面のような顔になっている夏実。
 大きな目をきょろきょろさせて、夏実と糸を交互に見て様子を窺っていた小夜だったが、次に糸と目が合ったとき、その瞳で間違いなく頷いた。

 勇気をもらう。

「堂道課長!」

「あぁ?」

 確かに思いきり大きな声で呼びはしたが、だからといって睨み返してくるなんて、いいトシしてヤンキーか反抗期か厨二病か。

「あの!」

「なに?」

 送別会の夜のように酒が入ってないから、糸は思わず怯みそうになったが踏ん張った。

「探してます! 合コンしたいです、私!」

8.堂道課長は知っている


 チャンスは突然やってきた。

「あー、えっと、たまゆらサンだっけ?」

「はい!」

 堂道が振り返ったままの険しい顔で、じっと糸を見た。
 一秒、二秒。一体、何の間か。糸の軽さが何か堂道の気に障ったのだろうかと不安になる。

「……合コン、頼まれてくれんの?」

「は、はい!」

「やりー。ダメ元で言ってみるもんだなー。助かったわァ。知り合いにしつこく言われてたんだよ」

 引き返してきた堂道は思い出したのかうんざりした表情になった。
 なんでも、その頼んできた人というのは堂道の弟分らしい(そもそも弟分という言い方がもう古い)。

「男のレベルはわかんねーけど大丈夫? 弟分はそこそこイケてっけど、他は知らん」

「いえ、いいんです! なんでも」

「まあ、こーゆーのは数打ちゃだと思ってもらって。当日、ハズレだったとしても俺は責任負えねーから」

「いえいえ、どんな方でもいいんで!」

「……あ、そ。すごい肉食なのな、おたく」

「いえ、そういうわけでは……」

 舞い上がっていた糸は、結果めちゃくちゃ合コンしたい人みたいになってしまったがやむを得ない。
 なぜなら、これがきっかけでいきなり堂道のラインIDをゲットすることに成功したのだ。

「たまゆらサンの連絡先をそいつに教えるか、そいつの連絡先教えっからたまゆらサンから連絡入れてくれるか。リスク少ない方選んでくれたらいいし」
 と言ったのにすかさず、
「や、やりとりは堂道課長経由でお願いします!」

「は?」

 堂道はすごくめんどくさそうな顔をし、実際、口に出して「なんでだよ、めんどくせーよ」と言った。

「後々、トラブルになってもいけないし!」

「だからトラブルなっても俺知らんって言っただろ。弟分によく言っとくから」

「いえ、課長にも紹介した責任がありますから! 最低でも当日までは!」

 堂道相手に、よくまあ咄嗟にそんなもっともらしいことを言えたものだが糸も必死だ。
 結局、折れたのは堂道の方だった。
 堂道はあてつけのような長いため息をつきながら、胸ポケットからスマホを出した。  

 現代人にとって、今や財布よりも重要で、肌身離さず持ち歩くスマホは、私物の中でも一番生々しいプライベート感のあるシロモノだったので、糸はどきどきした。
 それは一介の平社員である糸が『課長』ではない『堂道夏至』に触れることができる瞬間だった。

 堂道のスマホは、カバーも何もついていないそのままで、ロック画面もデフォルト。
 なんの発見も収穫もないが、なぜかそれで十分だった。

「あー? どうすんだ?」

「ちょっと失礼します」

 乗り出して、堂道の手元の画面を見る。
 堂道が近い。史上最接近だ。爪は短い。今日はレジメンタルのネクタイの日。確かに香る、何かの匂い。そこに加齢臭らしきものの混じりはない。

「これで、ここで、ここを……」

「頼むわ、若い人」

 今、堂道の支配下にあるのはスマホを持つ手だけ。後は、糸に言われるがままだ。

「私のスマホでこれ読み取りますね」

「糸、お先ー。課長失礼しまーす」

 気を利かせた小夜が、夏実を連れて先に行く仕草を見せた。
 廊下の何でもない場所で立ち止まる堂道と糸の組み合わせは人目を引く。
 通りすぎる人がちらちら見ていくのに、堂道が落ち着かない様子を見せる。

「早くしてくれ。目立ってるから」

「新しいともだちに『糸』って出ました?」

「出てる出てる」

「追加してください。おわかりになりますか?」

「わかるわかる、ハイハイ。じゃ、詳しいことは改めて」

「あっ、はい。よろしくお願いします」

 糸はふくれ面をつくる。
 同じフロアの隣の島同士なのだから、このまま一緒に行ってもなんら問題ないのに。

 糸と連れ立って歩く気などさらさらなさそうな堂道だったが、二、三進んだところで、糸を振り返った。
 また、何か言いたげな一秒の無言の間。

「あの……なにか……?」

「あんた」

 ためらいはあれど堂道はじらすことなく、糸は何を言われるのかと、にわかに緊張が走る。
 おずおずと「はい」と答えた。

「別れたのか?」

「へ?」

 なんのことを言われているのかわからなかったのは一瞬だった。
 
「川沿いにいただろ、男と」

「え、あ……。あの時……お気づきだったんですか、私のこと」

 ヨースケのことも、不自然な糸の『回れ右』も見られていたのか。同じ会社の女性社員とわかっていたのか。

 焦るやら、恥ずかしいやら気まずいやらで、糸は一気に変な汗をかいた。
 
「ま、男がいようと合コン行くのは個人の自由だしな。それは勝手にすりゃいいけど。そっちこそ面倒事持ち込むんじゃねえよ」

 言い捨てるようにして、堂道が前を向く。
 追いかける勇気はまだなかったが、糸は急いでその背中に叫んだ。

「わ、別れました! 別れたんです! 彼氏とは……」

「あ、そ。んじゃ、相手探しガチ勢なわけね。ま、頑張ってクダサイ」

 後ろを振り返らないまま、ポケットから出した手を軽く挙げて、先を行く。

9.堂道課長はお呼びじゃない


 とは言え、堂道とのやりとりは必要最低限だった。
 連絡事項以外の、余計なメッセージを入れたりはしなかった。というより、できなかった。
 何しろ相手はあの堂道なのだ。
 キャピキャピした何かなど到底送れるものではないし、やりとりのなかの堂道は笑ってしまうほどに事務的で、そんな雰囲気を許してくれない。

『今週、金曜日で日程よろしいですか』
『金曜日大丈夫です!』
『先方に伝えます』

『弟分ってどんな業種の方なんですか?』
『某病院の医師です』
『え!!! ハイスペじゃないですか!』
『人間性はわかりかねますが、玉の輿の観点から考えると、損なお話ではないと思います。ご健闘をお祈りします』

 なんなら、定型文と予測変換だけを使って返信しているのかもしれない。

 親しくなって交換したわけではなく、無理やり連絡先を手に入れたという負い目が糸に一線を越えさせない。

 一方で、どんな内容であれ堂道とやりとりしていることで満足している糸もいた。
 もっとも、その内容は多少思うところと違う気はするが、それでも感慨深い。医者合コンより感動に値する。

 夏実に「堂道に合コン頼むとか相手もまじクソ、絶対やばい奴」という太鼓判を押されたその弟分とやらは、昔、家庭教師のアルバイトをしていた頃の教え子だとのことだった。

『医大受験生に勉強を教える堂道課長、すごくないですか!?』
『彼が中学生の頃なので、別段すごいということはありません』

 その医者の弟分と同僚は、本気で合コンを心待ちにしていたらしく、日程はすぐに決まった。

 そんななかで、唯一何度も重ねて糸からメッセージしたことがある。
 
『当日、絶対堂道課長も来てくださいね』
『私が同席する必要はないかと存じます』
『監督責任あります』
『信用できる方々であるとの認識です』
『それでも堂道課長が来て睨み効かせて下さらないと』
『私がいたのでは、たまゆらさんがお楽しみ頂けないかと存じます』
『大丈夫です。楽しめます』
『予定が合えば伺います』

 やりとりはちぐはぐな距離感で、会社でも馴れ馴れしく話しかけたりはできない。
 でもたまに廊下で見かけた時に、駆け寄って、
「課長、絶対来てくださいね」
「あー、また連絡すっから。今その話ムリ」などと言葉を交わすくらいには、親しくなれた。
 画面の中の人柄とのギャップは、糸をにやにやさせる以外の何物でもない。

 男性側は四人だというので、糸も同じ人数を集めた。
 堂道が来たら嫌だからという夏実は合コンに不参加で、小夜は興味本位で参加だ。

『不安なので、待ち合わせ場所まで堂道課長と一緒に行きたいのですが』
『打ち合わせがありますのでご一緒できません』

『絶対来てくださいね!』
『ご健闘をお祈りしております』

 糸はこの日のために服を新調した。
 堂道に見せたくて選んだコーディネートだ。

 予約された店に行くと、相手の方が三人待っていた。
 一人は遅れて来るそうだ。
 用意された個室の、テーブルセッティングは八席。

 堂道の席は最初から用意されていない。
 やっぱり、と糸はとたんに楽しくなくなった。

「たまゆらさん? ゲシさんのオトウトブンの里谷草太さとやそうたです」

『ゲシさん』は糸の名字を漢字で伝えることはしなかったらしい。
 草太はまさに『ひらがなよんもじ』を絵にかいたような発音で糸を呼ぶ。

「玉響です。今日はこのような場をありがとうございました」

「いやいや、こっちこそありがとうね」

 男女各四人が揃い、場は予想以上に滑らかな盛り上がりを見せていた。

 堂道の弟分であり今日の幹事でもある草太は、物腰も柔らかで、空気も読めるし、気配りもできる。少しメタボ気味だが、爽やかな笑顔が人気の整形外科医らしい。

 まるで、堂道に頼んでまで出会いの場を求めなければならないような人種とは思えない。そもそもその爽やかさが堂道の知り合いだとも思えない。
 この人の成長の一時期に、あの堂道が関わっているとは考えられないほどの好青年だ。

「同業以外の出会いが全くないんだよね」

 それは参加したどの医師も同じ意見だった。
 にしても、貴重な機会とあがめられた今夜の女子軍が上流OLでなくて申し訳ない。

「たまゆらさんは彼氏募集中なんだって? ゲシさんが言ってたけど」

 場に乗り切れていなかった糸に気を遣って、草太は糸に話しかけに来てくれたのだろう。

「いえ、特にそういうわけでは……」

「よさげなヤツいなかったかー」

「そういうんじゃなくて……」

 糸は言い淀んで、もう何杯目かのグラスを一気に空にした。

 今日は飲んで倒れてもいいらしい。
 男性陣は冗談で、酔っ払いの介抱から急性アル中まで今夜は心配無用と言っていた。飲み会での医者の持ちネタなのかもしれない。

「今日……堂道課長は、来られないんですか」

 糸が尋ねると、
「えっ、来んの!? ゲシさん、来るって言ってた!?」

 草太は声を大きくして、預けていた身体をテーブルから起こした。
 堂道が来ることに焦りでもなく、期待でもない、ただ純粋にその可能性に驚いているようだ。

「いえ……、来てくださいってお願いはしたんですけど、堂道課長の口ぶりからして来ないだろうなとは思ってました」

「え、もしかして。たまゆらさん、ゲシさん狙いなの!?」

 さらに驚きで、草太が目を丸くする。
 
「いえ、そういうわけでは……ないこともなく……」

「えー、まじかー。たまゆらさんってば、いい趣味じゃん」

 それはストレートな誉め言葉なのか、遠回しな嫌味なのか。

「あー、それで急に合コンの話が降ってきたわけだ? おかしいと思ったんだよな。今までずーっと頼んでたのに、全然無理でさ。俺にそんなツテあるかよって言って」

 草太は言う時、堂道の真似をしたがよく似ていた。
 そして、いろいろと納得がいったのか、腕組みをして何度も頷いている。

「ゲシさんってさ、無茶なこと頼んでも、なんだかんだ無理して聞いてくれるんだよ。そこがトージさんとは違うんだよね」

「トージさん?」

「ああ、ゲシさんの弟」

「弟? トージ? ま、まさか、冬至?」

 今度は糸が身を乗り出す番だった。
 酒と落胆でぼんやりしていた思考にキレが戻る。

「そうだよ。ゲシさん、双子なの知らない?」

10.堂道課長は歩くのが早い


 数少ない情報をもとに、出勤時間にあたりをつけ、駅で待つこと十数分。到着した電車から一斉に掃き出される人の波を探すこと数回。

 堂道が、普通でない大きさのあくびをしながら改札を出てきた。
 歩き方でわかる。
 あれは、オフィス街に生息する絶滅危惧種のホワイトカラーヤンキーだ。

 糸は偶然を装い、「おはようございます」と駆け寄って隣に並ぶ。

「んあ? あー? あー……。たまゆら……サン? はよ」

 頭が働いていないのか、現状を理解するまでの経過が言葉と表情の両方から見て取れる。

「金曜日、なんで来てくれなかったんですか」

「金曜? あー、合コン? いやいや普通に俺必要ないし」

「必要ですって何度も言いましたよね」

 今日の糸は少し強い。草太のおかげだ。
 それでも、昨日一昨日はつらかった。久しぶりに恋愛で泣きたい思いを味わった。

 堂道は合コンの二次会にもやはり来ず、それでも、当日の夜か土日のうちには何らかのメッセージを寄こしてくれるのではいかと糸は期待していたが、ラインは一度も鳴らなかった。
 糸も意地を張って連絡しなかったから、少しは心配してくれるのではないかと思ったのに。
 スマホチェックばかりしていた二日間だった。

「草太から全員無事帰したって連絡あったけど、なんか問題あった? つか、いい人いた? やべ、こういうの聞くと、またセクハラ言われる」 

「別にセクハラではないです」

「以後気ヲツケマスノデー」

「いえ、別に気をつけていただく必要はありません」

 むしろ糸は、堂道と惚れた腫れたの話をしたいのだ。むしろセクハラウエルカムなのだ。女心はいつの時代も現金なものである。

「合コン、いい人いませんでした」

「草太、無理だった? アイツ、いいやつなんだけどな」

「友達といい感じだったので」

「ああ、それはご苦労さんでした」

 堂道がいなければ、それなりに出会いの場になっていたかもしれない。なんといっても相手はハイスぺ集団。
 小夜はすごく楽しんでたし、実際草太と気があっていた。

「ま、男なんて山ほどいんだしすぐ見つかるって」

「堂道課長が来なかったから話題がなくて、堂道課長の話くらいしか共通の話題がなくて」

「は?」

「堂道課長が双子だってこと、知りました」

「はァ?」

 堂道はようやく糸の方を見た。すごい形相で。

「草太、何言ってくれてんだよ。……ま、別にいいけどよ」

「合コンの愚痴、聞いてください。聞く義務あります」

「なんだよ、義務って。どんな奴らが来たか知らねーよ。苦情があんなら草太に言ってくれ」

「話聞いてください。相談乗ってください」

「イヤイヤ、どう考えても俺、恋愛相談とかいうキャラじゃねーし」
  
 社屋ビルの自動ドアをくぐってしまうと、エントランスホールにはたくさん人がいて、そんな話をする雰囲気ではなくなった。

 別れの挨拶もなく、堂道には自然に、糸には唐突に、話が終わり、堂道はちょうど扉の開いたエレベーターに乗り込んだ(さりげない割り込みとも言えた)。
 糸は手前で足を止めて、次のを待った。
 かごは糸を待たずとも満員になって、追いかけるのをやめたとは気づかれない。

 満員の沈黙の中に乗るには、呼吸を整えなければならない。
 それくらい糸の息はあがっていた。
 常に小走りでないと、堂道の歩調にはついていけない。

 朝、駅での待ち伏せが糸の日課になった。

 堂道は糸がわざわざ待っているなど思いもしていないし、乗っている電車が実は同じだったくらいに思っているのだろう。

 ラインも遠慮せずに送ることにした。

 『会社の近くで飲んでます』、『飲みに行きませんか』とダイレクトなものから、『月がきれいです』『いつもより電車が混んでいます』というどうでもいいことまで。
 返事は期待できない。合コンまでは、定型文であれ一応は返ってきていたのに今は既読スルーばかりだ。

『帰り道に猫がいました』と写真付きで送ったときだけはすぐに『いいね』スタンプの反応があって、古来よりのヤンキーと猫の切っても切れない関係に感動さえ覚えたが、『猫派ですか』と聞いたら『犬派』と返ってきた。

 実は糸は知っている。
 堂道の実家には、メロンちゃんという犬がいることを。

 これ以上、駒の進めようがない糸は、鬱陶しがられようと、がむしゃらに頑張る事しかもうできることがない。
 そんな無遠慮な愛情表現は、幼稚園のときに好きだったツトムくん以来だ。
 嫌がられても構わず追いかけまわしていた当時。
 二十六にもなってまたそれを繰り返しているとはまさに三つ子の魂百まで。

 毎朝、駅から社屋ビルまでのほんの数分、ほとんど会話にならず、一方的に糸が話かけるだけ。
 それでも就業中に接点はないし、死ぬ気でつくったきっかけを死守すべく、糸は毎朝、涙ぐましい努力を重ねている。

 身長差があるのと、堂道が糸に合わせる気が全くないせいで並んで歩くだけでも精一杯だ。
 そのうえで、限られた時間に捲し立てるためエレベーターホールに着くころにはいつも糸は息が切れている。

 ある朝、隣に並ぶと、珍しく堂道課長の方から会話がスタートした。

「てゆーかさ、たまゆらサン」

「はい!」

 話しかけられたことに、糸が目を輝かせて返事をする。

「これ、なんかの罰ゲーム?」

「はい?」

「よくあんじゃん? 漫画とかで。そういうゲームとか賭けとか、イジワルな感じの。俺さー、わかってっから、女性社員さんから俺がどう思われてるかとか。別に気にしてねーし。でもこういうイジメ方、さすがに俺も傷つくわ」

「……いじめ? 何の話ですか? どういうことですか?」

 糸は首を傾げる。固まった笑みを顔に貼り付けたまま、奥歯ににがいものが広がった。

「合コンの件は確かに世話になったけど、普通それで終わる間柄じゃん? 堂道クソムカつくし、からかってやろうぜとか、まあ知らんけど、あー、ツツモタセ的な? あ、これもセクハラ発言か」

「……違いますけど」

「まー、確かにそんな罰ゲームに誰に何のメリットがあんのか不明だし、あ、おたくらの暇つぶしみたいなもん? 仕掛け人に選ばれちゃったたまゆらサンも災難だわな、俺相手とか俺自身が同情するわー」

「意味がわかりません……」

「俺もわかんねーよ。けどさー、俺もそれなりに職場環境は大事にしてるわけ。だからもうチョロチョロすんのやめてくれる?」

 糸は久しぶりに感じた。
 少し前の、堂道とすれ違うだけで緊張していたあの感じ。
 無駄に、無意味に、強張る身体。

「罰ゲームかなんか知らんけど、俺はアンタに落ちないし。つーか、うざい」

 糸が並んで歩く努力をやめると、堂道はあっという間に遠ざかっていった。

 今朝のために用意していた話は何一つできなかったけれど、やっぱり今日も糸の息は上がっていた。


NEXT11話~15話

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?