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1.ゆるやかな絶望しかない未来

『おー、助かる。じゃ19時に改札で』

 ご飯を作りに行こうかと尋ねたら、了解の旨の返事が届いた。
 今日の今日でOKということは、今は仕事の忙しくない時期らしい。

 わたしには幼なじみがいる。
 幼なじみの家に、たまにご飯を作りに行く。
 頻度は月に一回と決めている。それは厳密ではなく、なんとなくを装う一ヶ月。それ以上頻繁には行かない。それはわたしの矜持と予防線。

「おー、待った?」

 黎は待ち合わせの時間少し前に改札から出てきた。
 仕事の疲れからなのか、着ている服のせいなのか、ひどくくたびれて見える。もともとの線の細い体格のせいかもしれない。鍛えているらしいが、全く武闘派には見えず、さらに痩せたように思えた。

「おかえりー。ちょうど今、買い物おわったとこ」

「まじか、わりいな」

「いいよ。早く着いて時間あったから」

「ん、持つ」

「あ、ありがと」
 
「ちょ、おま。これ買いすぎだろ。いくらだった」

「いいよ、別に」

「そうはいくかよ。あとで払うわ」

 思わせぶりなこともしない、言わない。
 ホントに黎はまじめだ。

 黎の部屋は悲鳴を上げるほど汚くはないが、きれいに片付いているわけでもない。

 キッチンのシンクには、コンビニ弁当、インスタントラーメンのゴミが何食分も溜まっていた。
 いつものことだから、特別文句も言わずにその片付けからとりかかる。
 いちいち口うるさく注意していたのは二十代後半まで。
 彼女はいないな、とかその種の安心材料だったのもその頃まで。
 ずっと独り身なのは、いちいち尋ねなくても知ってる。
 今は純粋な心配の方が勝る。
 仕事が忙しくそれどころじゃないのだろうとか、そんな暇があったら眠りたいだろうとか、そもそも家に週に何度くらい帰ってきているのかとか。
 黎は相変わらずくたびれた部屋着に着替えて、すでに脱ぎ散らかしてあった衣類を洗濯をし始めた。

「うまー!」

 わたしの作ったかんたんなごはんをがつがつとかき込みながら言った。

「手作り! あったかい! 最高! 炊き立ての飯とかいつぶりだー」

「普段も少しくらい自炊したら? 今の課、時間ないわけじゃないでしょ。身体によくないよ」

「わかってはいるんだけどなー、なかなか。やる気がでねえ」

 一人暮らしをするとき、わたしはあえて黎のマンションの近くには住まなかった。
 しかし、遠いわけではない。
 仕事は定時で終わる。
 だから、頻繁にここへ来て食事を作ることはできる。掃除や洗濯も。
 でも、黎はもっと来てほしいとは言わないから、私も来ないし、言わないことにしている。
 おそらく頼む道理がないと思っているのだ。
 彼女でもないただの幼馴染みのわたしに。
 なんの責任も取れないから、わたしの時間を無駄にさせられないと思っているのだ。
 ホントに、黎はまじめだ。

「ねえ、黎。今度のさっちとタカシの結婚式、来ていく服あるの?」

「あるよ?」

「今日のスーツ、超ヨレヨレだったよ」

「仕事着だよ」

「シャツにアイロンとか……」

「アイロンなくても死なない」

「ま、そりゃそうだけど……。美容院は行きなよね」

「あー、確かに。こんな髪で行ったら、またかーちゃんうるせーしな」

「結婚式の日、実家帰るの?」

「そのつもりにしてるけど。まあ、仕事次第だな。お前は?」

「まだ決めてない。でも帰るなら前日かなって思ってたけど」

「ふーん」

「別に帰んなくてもいいから、なんなら式の前にここに寄って、服装チェックしてあげるよ」

「あのなー、俺だってちゃんとした社会人なんだよ。ちゃんとする時はちゃんとできる」

「ホントー? 儀礼服だっけ? それじゃないよ?」

「ったりめーじゃん。わかってるよ。俺のこと気にするより、お前こそ時間かかんだろーが。髪の毛とかさ、行かなきゃなんないんだろ?」

 わたしは自分のお箸を置いて、思わず遠い目になった。

「……黎はモテるだろうねー。気遣いのできる男。モテるわ」

「なんだよいきなり。ま、そこそこはな」

 黎は嘘をつかないから、きっとそこそこモテるんだろう。
 まるで警察官に向かないような色も白い、優男で、そういえばまだ交番勤務だったとき、近くの女子高に黎のファンクラブができてたっけ。
 黎は明るくお調子者で軽さがあるのに、けっこう正義にアツく、マジメだ。
 中高は男子とばかりつるんでたけど、大学では彼女のいた時期が何度かあった。

「それにしても、さっちとタカシがね-」

「人生何が起こるかわからんもんだよな」

 来月、結婚するのは地元中学校の同級生同士なのだが、二人はずっと昔からつきあっていたわけではなく、なにかのきっかけで再会して、結婚するにまで至ったらしい。
 さっち曰く『もう次がないタイミングだから妥協婚』だそうだ。
 確かに、私たちはそんな年齢。

 黎が口にあるものをゴクリと音を立てすべて飲み込んだ。

「おまえ、いくつんなった?」

「そう言うおまえはいくつだよ?」

 ため息を一つついてから、同じ文句で聞き返すと、「えーと、34か?」と黎は三十四にもなって相変わらず柔らかそうな髪を掻きながら言った。

「じゃあ私も今年34だね。同級生だから」

 どれだけ興味ないのよ、と嫌味っぽく言えば、すまん、と肩を竦める。

「おまえ、結婚は?」

「予定ないねー」

「男はいないんだっけ?」

「うん」

「女の人は出産とかもあるじゃん? だからするならそろそろ考えないとダメなんじゃねーの? そりゃ、一生しないつもりならいいけどさ」

「詳しいね」

「あー? ちょうど今日婦警さんがそういうの言っててさ」

「ふーん」

「今度の結婚式でやけぼっくいもあるかもな。せいぜいがんばれよ」

 中学校の同級生でやけぼっくいに火がつくとすれば黎だけなのだけれど。
 微妙な年齢、微妙な関係、微妙な話題。
 たとえば、さっちとタカシみたいにとか、あまりもの同士くっついとく?とか、貰い手ないなら俺のとこ来いよとか、やきもちも、駆け引きも、期待も希望もわたしたちの間にはまったくない。

「黎こそやっぱり結婚はしないの?」

「そうだなー」

「心境の変化はないんだ」

「なんだかんだ、仕事好きだしなー」

 黎は七年前に犯人を捕獲するときに刺されて死にかかったことがある。
 その時、共に瀕死の重傷を負った先輩がいて、病床で泣き崩れる先輩の奥さんの姿を見て、自分は結婚しないと決めたらしい。
 それは決意としてわたしに語っただけなのか、通達と受け取るには、当時、まだわたし達の関係には具体性が足りてなかった。

 わたしと黎は二度、寝たことがある。
 高校生のときと社会人になってから。二度目はお酒が入っていたから黎には事故といえるのかもしれない。
 その話題に関してだけは、わたし達は薄氷の上に成り立っていて、さらには、わたしが百対ゼロで黎に優位に立てるところだ。
 たとえば、それをネタに結婚してと迫れば黎にうなずかせることができるくらいには。
 目覚めたとき、告白ではなく、土下座された。
 わたしだって別に男性経験は黎だけじゃないから別に気にしていないのに。
 そして、マジメな黎にしては、だから付き合おうとはならなかった。
 タイミングが悪かったのだと思う。
 黎が死にかけた後、黎が決意した後のことだったから。

 愛してる男はいるけど愛してくれる男はいない。
 初恋の人を思い続けていられるほど余裕もないけど、新しい人を探さねばならないほど切羽詰まっているわけでもなく。
 三十路を過ぎて結婚における売り手市場も終わり、容姿の衰えは著しく、腰掛けのような仕事内容はキャリアアップとかそういうものは望めない。
 世間体も気にしないで、子供もいらないなら、別にまだたっぷり時間はある。
 しかし、どれだけ時間はあれどこの先に進展、発展ののぞめそうなコンテンツはだんだんと減っていく。何事も右肩下がりだ。
 
 とりわけ幸せでも、とりわけ不幸でもない。
 今あるものに不満はないけど、今ないものもやっぱり欲しい。
 初恋の、結婚願望のない男をこのまま引きずり続ける予定で。
 漠然と、自分の延長線上にあるものはゆるやかな絶望だった。

 ご飯を食べ終えると、黎が洗い物をしてくれたので、わたしは部屋の掃除機をかけた。
 家で調理して持参していた常備菜をめいっぱい冷蔵庫につめこんだ。
 片付いた部屋で、全然オシャレじゃないちゃぶ台みたいなテーブルを囲んで、テレビを見ながらお互いにビール一本だけ空けた。
 終電の時間よりもずいぶん前に、駅まで送ってくれる。

「今日はサンキュ。また頼むわ」

「おっけー。では!」

 わたしが敬礼をしてきびすをかえしたとき、
「あ」
 黎の声が背中にかかる。

「これ」

「なに?」

「お前もうすぐ誕生日じゃん?」

 誕生日にご飯を食べに行こうとか一緒に祝おうとかはない。
 でも忘れずにいてはくれる。
 煌々と明るい電車の中で、私はもらった包みを開けてみた。
 おしゃれな雑貨店に売っているエコバッグ。

「こんなの、黎が一人で選んでたら怖いって」

 さっき黎の話に出てきた婦警さんと一緒に選んだのかもしれない。 
 メッセージを送る。

『ありがと、所帯じみたプレゼント』

『えっ、まじか! やっぱ主婦の人に選んでもらったからかなー?』

『実用的でヨシ』

『まぁ、よかったら使ってよ』

『うん。食材買って、これに入れて、また行くよ』

『頼みます。そんで、できればもちょっとスパン短めだと嬉しいッス』

 黎にはロマンチックは期待できない。
 でもこうして駆け引きのない、素直な気持ちを聞かせてくれる。
 黎に結婚願望はないけど、恋なら黎とまだできるかもしれない。
 人に分けてあげたいくらい幸せではないけれど、嘆かなきゃいけないくらいの不幸せではない。
 
 やっぱり未来の展望はゆるやかな絶望のなかにある。
 けれど、わたしは二週間に一度のペースで行こうと思った。

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