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震災から25年。見えない誰かからの温かさを伝って。#NoteDay5


25年前の今日、阪神淡路大震災があった日。
当時、私は兵庫県西宮市に住んでいて、小学校1年生だった。

前日、耐寒かけ足が始まるのが憂鬱で、
「明日がやってこなければいいのに!」と思いながら眠りについた。


1995年1月17日5時46分
記憶は断片的ながら、地震の時の衝撃は忘れない。

全壊した家から家族でなんとか出て、
凍りつくように寒く、明けつつある朝を、
小さな背丈からの視点で見つめていた。

あの時、私と弟の前にあった大きなタンスが倒れてきていたら、
私たちは、今日、ここにはいないだろう。

決して頑丈ではなかった古いアパート。全壊判定の紙が貼られた。
家族が無事だったのは、本当にありがたいことだったと思う。

お父さんは、歪んだドアで出られなくなった同級生を
近所の人と一緒に助けに行った。

突然、私たち家族の住む家がなくなったので、
避難所に指定されていた小学校の体育館に家族で向かい、
体育マットを一つ見つけて、そこを私たちの「家」にした。

小学校に炊き出しをしにきてくれた人や物資を運んでくれた人たちがいて、
私たちは、それをもらうための列に、
お父さんやお母さんと一緒に、手をつないで並んだ。

どこかの部屋は「入っちゃいけない」と言われ、
後から亡くなった人のための部屋だと知った。

私のいた小学校は「しばらく授業はない」ということを言って、
余震にも気をつけるようにと私たちに伝えた。
6人の小学生が亡くなったと後から聞いた。

私たちは、しばらく体育館で生活したあと、
一旦大阪の祖父母の家に避難し、
勉強の遅れを心配した両親は、
そこで学校に行けるように手配してくれた。


ボランティアの組織から、勉強に必要な鉛筆やノートがたくさん届いた。
知らない誰かの名前が入った鉛筆を使って、勉強した。
「勉強できる機会を大切にしないと!」と思った。

そのあと、急遽、大阪の堺に引っ越すことになった。
祖父母の所の学校に通ったのは、4日間だけ。
朝礼で挨拶してから、1週間も通わないうちに、次の家に移った。


私の父方の親戚はほぼ神戸だったが、幸いにもみんな無事。

神戸の祖父母の家は、倒れた阪神高速道路のちょうど反対側にあった。
先生をしていた親戚は、学校の子どもたちの家を助けに回ったりしていた。


阪神淡路大震災。
たくさんの人が亡くなり、多くの人が大切な人やものを失ったできごと。
それぞれの文脈でそれぞれの想いがある。

毎年震災の特集番組を見るたび、チクリと心が痛んだ。
「私が生き残った意味はなんなんだろう」
と、答えのない疑問の答えを問い続けてきた。


大学生の頃、
人と防災未来センターの語り継ぎの動画で話したり、
様々な年代の人達とともに、mixiでコミュニティを作って活動したり、
防災のPRのWebサイトやTwitterをつくったり、
松原さんとComing Kobeで企画をさせてもらったりした。
自分なりに、試行錯誤した。

あれから、25年。
時々、あれは本当の記憶だったのか、と疑うけれど、
電気を消して眠るのが苦手なことや、
ちょっとした地震に怖くて涙が出たりもすることがあるから、
やっぱり本当だったのかもしれないと思う。

ある日突然、家と思っていたところがなくなること。
かたちあるものが、いとも簡単に崩れてしまうこと。
いつも見えていたものがゼロになる怖さ。

でも、私は、あの経験で、見えない温かさを学んだ。

凍える寒さの中、
ボランティアの人の「どうぞ!」と差し出してくれた
炊き出しのおかげで、食事ができたこと。
日本のどこかの見知らぬ誰かの鉛筆で勉強ができたこと。
お父さん、お母さんのおかげで、暮らしを続けることができたこと。


6歳の子どもだった私は、
「何もできなかった私がなぜ生き残った?」
とその後の人生の中で、時々考えてきた。


25年経って、私のホームは、
海外と日本のあいだ、今と未来のあいだにある。

社会を変える可能性のあるテクノロジーの分野で、
PRという手段を通して、日本と海外をつなぐ役割をしている。

ものづくりの人達と、価値づくりをすることが仕事。
目に見えないものを創り出し、人の心を動かして、
国際間で、人と人の手を繋ぐことに関われたら、と思ってきた。

あの時、知らない誰かに見えない温かさをもらったから、
どこまで届くかわからないけれど、
私なりの形で、恩返しをしたいという気持ちが
どことなく、心にいつもあり続けている。


様々な場所で、講演で話をしたりすると、
「まりさんの行動力はどこから湧いてくるんですか?」
と必ず聞かれる。

いつもその回答に迷うけれど、きっとこの3つだ。
答えの出ない疑問と、揺るぎない手触りと、強い希望。

「生き残った意味はどこにある?」という答えの出ない疑問、
それでも「今日1日私はここにいることができた」という揺るぎない手触り、

そして何より、
「明日を見たい」という強い希望。

いくらつらくて寒い日でも、
もう明日がなくなればいいのになんて思わない。

今日1日を生かしてもらっている。
だから、今日を大事にして、

その先の明日を、誰かと一緒に見たい。

自分なりの生き方で、
一日一日を大事に生きたいと思います。


今日は、2020年1月17日、ドイツ出張に向かう飛行機の中から。

トップの写真は、当時住んでいたアパート(震災後)

震災絵日記

震災後の1月31日に書いた当時1年生の私の絵日記

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