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あの夜の桃味のスプーン

世界に広がったウィルスと
偏屈な従兄弟が引き篭もってしまっせいで
大好きな叔母に会えたのは約3年ぶり。
母にとって、叔母は歳の離れた姉であり母親に近い存在だ。

次に会うときは、私と3人で温泉にでも行こうと話したのが最後になった。
その時にも痴呆は少し進んでいたけれど
まだ会話は何とか出来たし、笑顔もあった。


つい数日前

老衰でおそらくもう長くないと言われたと
従兄弟が母に電話をかけてきた。
電話のむこうの彼の声が少し詰まって心細そうだったと、急いで叔母の家に車で向かうことに。

叔母は本当に小さくなって、もう私達が誰かもわからない赤ちゃんのようだった。
3年前とは比べられないほど。
従兄弟の体調が悪くて、介護ホームに数日預かってもらい戻ってきたら叔母の衰弱がさらに進んでしまったらしい。
自分の家が落ち着くようだ、ここで過ごせて良かったと従兄弟や訪問看護の人は言う。
ここがゴミ屋敷でも。

スプーンですくった桃の香りのする水を数滴、
私の手から飲んだ。
若い頃から桃が大好きだったようだ。
味がわかったか表情では読み取れなかったけれど、続けて口を薄く開くのでタイミングを見ながらゆっくり、ゆっくり、喉に流すようにした。

足元の布団がぐちゃぐちゃになっていたので、
周りのものをできる限り動かして
毛布や電気コタツを整え、叔母の体を戻した。
せめて、寝心地をちょっとでも良くしたかった。

手を握るとゆっくりだがギュっと握り返してきたり、こちらへ押すように動いたりした。
手は細くて冷たかったけれど、しっとりと柔らかかった。
叔母のとなりに寝転ぶように顔を寄せて
小さく歌いながら、手を握ったり足をさすった。

もう一人の従兄弟がやってきた。
彼は実家で叔母と暮らす弟と激しい喧嘩をして、何年も家に帰っていなかった。
喧嘩の理由は色々ありすぎて長くなるのでまたいつか。
弟は、自分の兄のことも姉がわりの私の母の意見も受け入れず拒絶していたが、少し前に母からの電話でようやく穏やかに話せたと連絡をもらい少し安心していたところだった。


私と母がいるなら、と上の従兄弟は叔母(彼にとっては母親)に会うためにようやく家にやって来たのだ。

上の従兄弟の声は大きい。
昔からとても特徴のある、よく通る声をしている。
この家にこの声が響くのは本当に久しぶり。

下の従兄弟が、叔母の体を起こして
みんなの顔を見渡せるようにすると
それまで虚ろだった叔母の表情が驚きに変わった。
目と口を丸く開きしばらく瞬きもせずこちらを見ていた。

束の間だったけれど
久しぶりにみんなでたくさん話して笑った。

お兄ちゃんのこと、わかったかな。
妹のことがわかったかな。
私の声も聞こえたかな。

足をさすると、見たことのない顔で
眠るように目を閉じた。
心地良いと感じてくれたのだったらいいな。

またすぐに会いにくると約束して、それぞれ帰宅した。
帰るとき、母は「お姉ちゃん寂しそうな顔してる」と言っていた。
わかってたかな。
わかってなかったかな。

車で数十分、実家に戻り食事をして
入浴を済ませた頃にまた電話が鳴った。
下の従兄弟だ。

「息をしていない」

だった。

みんなに会えたその数時間後に、叔母は眠るように旅立った。

お兄ちゃんのこと、待ってたのかな。
お母さんの声、私の声、聞こえてたかな。

ずっとずっと我慢ばかりしてたから
最後の最後にほんの一瞬だけでも、寂しくない夜で良かったかな。
少しでも、わかってくれてたらいいな。
最後の味が桃で良かった。

会いに行けなくてごめんね。
会えて嬉しかった。
もっと会いたかった。

私は叔母が大好きだ。
私にとっては可愛くて優しくて、大切な人。

あの夜を忘れないように。
あの夜をここに。

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