なんでもない私の10年前の日記~東日本大震災のころ~


2011年09月11日23:16
タイトル:「平成23年3月11日」

携帯の未送信ボックスに、アップ予定だった当日の記録日記を見つけました。
震災から12日後、電気と水が復旧して、やっと日記が書けるようになった時に途中まで書いて、なんだか更新する気になれず今に至っていました。
6ヶ月の節目。
私も少し思い出してみようと思います。
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被災当日のことを、記憶が薄れないうちに書き留めておこうと思います。

当日は仕事がお休みでした。そして私の誕生日。
夕方、お祝いに海の近くのお寿司やさんに行く予定でした。
勿論今は、跡形もありません。

あの時津波に巻き込まれていたのは、私だったかもしれないと、今でも本気で思っています。

当日、午前中は定期通院のために病院に行って、薬を貰ってきました。
当初22日の予定だったのですが、仕事の都合で予約の変更をお願いしていました。
2ヶ月分の薬を処方してもらったので、ここでも命が助かりました。

通院が終わり、図書館のソファーで本を眺めていた時、地震が来ました。
それまでも震度5程度の地震は経験があったので、はじめは余裕でいたものの、揺れは長く続き、激しさも増してきます。
今まで体験したことのない大きく長い揺れに、命の危険を感じました。

横揺れがひどく、立っていることができない状態。
歩道沿い3メートルの大ガラスが割れ、ガラスの塊が飛んできました。
それでも、比較的堅牢な公立の建物の中にいたという安心感があり、大きなパニックを起こさずにすみました。

信号も停止。
日没前に帰らないと大変なことになると思い、余震が続くなか帰宅を決意。
幹線道路の直進と左折で、なんとか無事帰宅することができました。
ドライバー同士の絶妙な意志の汲み取りと譲り合いの心を見て、「日本人、本当に凄いな」と思いました。

途中、ありえない泥汚れの車をたくさん見て不思

議に思っていましたが、いまは津波から逃れてきたのだと分かります。
私が津波の被害を知ったのは、翌日の新聞(地方紙)でした。
8ページという特別版だったものの、こんな大きな震災の時でさえ新聞を出し続け、各戸に届ける報道機関の意地を感じました。

それからしばらく、私の情報源は新聞とラジオ、それから口コミでした。
「浜の方で、2~300人の遺体が上がってるんだってさ」という口コミがデマでないということが分かって、ショックでした。
でも、信じられませんでした。
親戚の家に電気が通ってから見たテレビ映像で、ようやく現実だったのだと思いました。

家の外壁が壊れたくらい、ガラスが割れたくらい、自分の部屋の中がグチャグチャになったくらい、どうってことないです。
誰かが帰ってこないことに比べたら。
大事な物がすべて流されたことに比べたら。
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あれから6ヶ月。
今日も、支援活動をしている社長のところに行ってきました。今は、毛布や冬物衣類など、冬に向けた支援物資を集めているそうです。
「被災地には支援物資が溢れているって言われているようだけど、行き届かない場所や必要としている人はまだまだいる」

今度、仕訳作業に混ぜて貰おうと思います。
今年の冬は、お願いだから寒くならないで欲しい。

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