銀河の風に吹かれて


「いま令和だよ?いつまでそんなこと言ってるの?」
Twitterでよく見かける。Xか。
主に女性から男性に向けて。
なんかこわいなーって思う。
ただの煽り文句なんだろうけど、ひょっとしたら年号が変わった途端に考え方が変わるって本当に思っているのかな?みたいな人もたまにいる。
将来自分が「なひ令和ひきずってんの?」と言われる想像はしないんだろうか。その頃には新時代にちゃんと適応できる自信があるんだろうか。

私は今共働き(の育休中)で、夫は家事も育児も当たり前のようにしてくれる。私はそれにとても感謝している。
でも、「外で働く人、家を守る人」って役割分担してたほうが、効率的というか合理的なんだろうなーってしばしば思う。子どもが発熱してもいつでも対応できるし。
働くにしても、妊娠出産は女性にしかできないからどうしても仕事を休む必要がある。その流れで女性が育休を取得するのもまあ合理的なんじゃないかなーとも思う。
「令和だよ?」と叩かれそうな考え方をしているのかもしれない。

①考え方は時代がかわると変わるのか?

そうだとしたらそれってこわくない?自分の頭で考えているはずなのに。と思うんだけど、そもそもこの感覚が間違っているのかな。

置かれた環境によって「価値観」が変わるというのは理解できる。
大富豪だったら5円落としても悲しまないだろうけど、一文なしスレスレだったら悲しいだろう。災害がおきれば、戦争がおきれば、価値観はガラッと変わってしまうんだろう。変わらざるを得ないんだろう。

価値観と考え方の相違点は?
うーん。難しい。考え方と感じ方というのもまた違うのだろうし。
「自分の頭で考えている」その自分の頭は、常に外界によって調律されているのかな。その調律が追いついていないのが時代遅れな人なのかな。洗脳となにが違うんだろう。他者から考えを支配されているのとなにが違うんだろう。

「時代がかわってもも変わらない、歌の力」
歌番組で櫻井くんとかが言ってそう。
それとはちょっと違うんだけど、やっぱり時代がかわって(大きな声では言えなくなって)も、変わらない考え方ってあるんじゃないかなーとも思う。感覚的なもの。こわいとか気持ち悪いとか、誰に教えられたわけでなくても感じてしまうものを、排除しようとする考え。美しいものを見ていたいという気持ち。そんなものまで「令和だよ?」と否定されてしまったら、どうしたらいいんだろう。

「美川憲一×ひろゆき」の対談をYouTubeでみていたら、美川さんが「私は流行りに乗るわよ。YouTubeも早くから始めたのよ」というようなことを仰ってた。
芸能界で長く続いている方は、変化をおそれずいち早くそれに加わり、流行とともに流れていける、それを楽しめる人なのかもしれない。
考え方が変わるのなんて当たり前!って感じなのかもしれない。
自分の型を貫き通すような「時代がかわっても変わらない人」のイメージだったから意外だったし、かっこいいなーと思った。
かわる時代に身を委ねつつ、本質的なところは変わっていないのかもしれない。
なにが本質なのか分からないけど。

②私が考えることは私だから考えているのか?

「もしも私が江戸時代に生まれていたら…」なんて空想をすることがあるけれど、それはあり得ないことだと分かっている。
平成◯年のあるタイミングに、ある両親のもとで発生していないと私は私ではなかったのだ。

少し話がズレるけれど、Instagramなんかで見かける「赤ちゃんは空からお父さんとお母さんを選んで来てくれるんだって。私たちを選んでくれてありがとう💓」みたいなのは、馬鹿なんじゃないかと思う。その親から発生しているからその子はその子なのであって。
それとも「その子」の枠を超えた(?)、魂(?)の話をしているのだろうか。受精して着床して細胞分裂して人の形になったそこに宿っている魂が、そこに宿ることを空から決めたということ?いちど本気でそう思っている人に詳しく話を聞いてみたい。

この時代に、あるタイミングで、私として生まれたから、私はこう考えているのか?

③「日本は終わっている」のか?

これも最近目にする、耳にする。
SNSの中だけなのかなぁ。
日本が終わっているという人にとって、終わっていない国ってどこなんだろう?
世界が終わっているという可能性は?
もしくはどこに居ようとその人がその人である限り終わっているという可能性は?

ここはもうちょっとなんとかならないかなーと思う部分はもちろん色々あるけれど、私は日本に満足している。日々の生活に満足しているから、日本にも満足していると言えるのかもしれない。
では何によって満足しているのか?
何が欠けたら満足じゃなくなるのか?それは日本によって得られているものなのか、日本のせいで失う可能性があるものなのか…。

これは誰しもが持つものなのかどうかは分からないけれど、自分の中に、自分でどうこうできない波?溝?のようなものがある。
どんなに満足で穏やかで幸せでも、その溝にすとんと落ちてしまうと、生きているのが苦痛になってしまう。外界からは支配されない、それゆえ助けてももらえない、溝が存在している。


①②③とあたかも順序立てて話を進めているように書いていたけれどなにもまとまっていないし今まで書いたことと矛盾しまくっていると思うけど、自分のなかに、時代にも「私が私である」ということにも、左右されない自分がいる。
それはひとの話を聞いているようで聞いていなくて、文字を読んでいるようで読んでいなくて、ふよふよと漂っているようにもずっと奥のほうにいるようにも感じられる。

夕焼けが目に映ったとき、美しい音が空間にたっぷり響いて耳に届いたとき。大切な人が笑ってくれたとき。溝のそばで立ち尽くしているとき。

そんなときに感じることは、私が私でなくても、夕焼けの存在しないところで生きていても、もしかすると人間でなくても、感じるんじゃないかと、なんとなく思うのだ。
それは魂かもしれない。空にいるわけでもなく、いないわけでもなく。

そんなことを考えていたら、ふと

もし生まれ変わって 違う私でも
永遠に 銀河の風に吹かれて

風に吹かれて/JUDY AND MARY

この歌詞を思い出して、こんなに長々とだらだらと私が考えていたことが、すでに書かれていた、と感じて、ジュディマリはすごい!っとなった。全然違う話かもしれないけど。

生まれ変わって、別の時代で、その時代でしか考えられない、もしかすると考える能力を持たないなにかであっても、宇宙を漂って生きて死ぬんだろうね。

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